英語は難しくないのに速読するのは難しい本 [音楽と英語]
英語の力をつけるために読書は不可欠だろうし、多読、あるいは速読の重要性もよく指摘されている。ただ、速読を強調するあまり、何でもかんでも速く読まなくてはならない、という固定観念のような考えを持つとしたら、それはそれでまずいのではないだろうか。今回読んだエドワード・サイードとダニエル・バレンボイムの対談集は、そんなことを思わせてくれた。
「オリエンタリズム」などの著書で知られる思想家・評論家のサイードは、数年前に亡くなったパレスチナ系アメリカ人だが、政治や宗教、異民族・異文化間の問題、さらに音楽にも造詣が深い。インタビューや対談を基にした著書もいくつかあるが、この "Parallels and Paradoxes" はそうした一冊で、指揮者・ピアニストであるバレンボイムと数回にわたって行った公開対談をまとめたものだ。
薄い本で、英語も平易だが、内容は広くかつ深い。音楽についての専門的な部分は私には理解できなかったのでそれはおくとして、幅広いテーマについて会話が展開される。
パレスチナ人とユダヤ人双方の若い音楽家を集めて開いたワークショップについて。ナチスが利用したワーグナーの作品をユダヤ人であるバレンボイムが指揮することの意味。独裁的な政治の下での音楽活動。作曲家が楽譜で指定したメトロノーム速度と実際に演奏する際のテンポ設定、それにからめて論じられる中東和平の失速。などなど。
難しい単語や表現はあまり使わずに、こうしたテーマについて縦横に論じている。言い換えれば、平易な表現や構文であっても、それをたくみに駆使することで、これほど高度な内容を表現できるのかということを思い知らされる。
そして、こうした本は、単語がやさしいからといって、速読には到底そぐわないものだろう。全体で200ページ足らず、活字もそれほど小さいわけではないのに、ゆっくりと、時には行きつ戻りつして読まざるを得ず、それでも私の頭ではわかった気にすらならないところが多々あり、いつかまた挑戦しなくてはと、くやしい思いをした。
「辞書を引き引き」の段階を曲がりなりにも脱したあと、私にも一時期、速く読まなければという強迫観念のようなものがあった。しかしある時、どうも活字を目の前に素通りさせているような気分になり、意識的に読み方をアナログ的変速に変えた。
あくまで情報を取ることが主眼なら速く読むよう心がける。ゆっくり味わいたい時は速度を落とす。速く読んでいてもスローダウンが必要と思う箇所が出てくればそうすればいい。考えてみれば、日本語の本を読む時もそうしているはずだ。1分間の目標何ワード、というような器を先に設けてそれに活字を入れていくのではなく、活字が注ぎ込まれた時の状況や目的で、器の方を変えるわけである。
もちろん、あくまで速読だけで英語も内容の理解も万全、という人がいたら、それは素晴らしいことであり、否定をするつもりはない。方法論は、人によって違ってしかるべきだからだ。しかし一方で、速読速読、という風潮に疲れを感じている人がいたら、試しに一度、肩の力を抜いてみるのはどうだろう。また、肩の力を抜く必要がないという人も、時にはじっくりと英語を読み込んでみるのは、決して無駄にはならないと思う。
Parallels and Paradoxes: Explorations in Music and Society (Vintage)
- 作者: Edward W. Said
- 出版社/メーカー: Vintage
- 発売日: 2004/03/09
- メディア: ペーパーバック
「オリエンタリズム」などの著書で知られる思想家・評論家のサイードは、数年前に亡くなったパレスチナ系アメリカ人だが、政治や宗教、異民族・異文化間の問題、さらに音楽にも造詣が深い。インタビューや対談を基にした著書もいくつかあるが、この "Parallels and Paradoxes" はそうした一冊で、指揮者・ピアニストであるバレンボイムと数回にわたって行った公開対談をまとめたものだ。
薄い本で、英語も平易だが、内容は広くかつ深い。音楽についての専門的な部分は私には理解できなかったのでそれはおくとして、幅広いテーマについて会話が展開される。
パレスチナ人とユダヤ人双方の若い音楽家を集めて開いたワークショップについて。ナチスが利用したワーグナーの作品をユダヤ人であるバレンボイムが指揮することの意味。独裁的な政治の下での音楽活動。作曲家が楽譜で指定したメトロノーム速度と実際に演奏する際のテンポ設定、それにからめて論じられる中東和平の失速。などなど。
難しい単語や表現はあまり使わずに、こうしたテーマについて縦横に論じている。言い換えれば、平易な表現や構文であっても、それをたくみに駆使することで、これほど高度な内容を表現できるのかということを思い知らされる。
そして、こうした本は、単語がやさしいからといって、速読には到底そぐわないものだろう。全体で200ページ足らず、活字もそれほど小さいわけではないのに、ゆっくりと、時には行きつ戻りつして読まざるを得ず、それでも私の頭ではわかった気にすらならないところが多々あり、いつかまた挑戦しなくてはと、くやしい思いをした。
「辞書を引き引き」の段階を曲がりなりにも脱したあと、私にも一時期、速く読まなければという強迫観念のようなものがあった。しかしある時、どうも活字を目の前に素通りさせているような気分になり、意識的に読み方をアナログ的変速に変えた。
あくまで情報を取ることが主眼なら速く読むよう心がける。ゆっくり味わいたい時は速度を落とす。速く読んでいてもスローダウンが必要と思う箇所が出てくればそうすればいい。考えてみれば、日本語の本を読む時もそうしているはずだ。1分間の目標何ワード、というような器を先に設けてそれに活字を入れていくのではなく、活字が注ぎ込まれた時の状況や目的で、器の方を変えるわけである。
もちろん、あくまで速読だけで英語も内容の理解も万全、という人がいたら、それは素晴らしいことであり、否定をするつもりはない。方法論は、人によって違ってしかるべきだからだ。しかし一方で、速読速読、という風潮に疲れを感じている人がいたら、試しに一度、肩の力を抜いてみるのはどうだろう。また、肩の力を抜く必要がないという人も、時にはじっくりと英語を読み込んでみるのは、決して無駄にはならないと思う。
タグ:クラシック
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