「さゆり」 (印象に残った翻訳) [翻訳・誤訳]
これまで、いろいろな翻訳を読んできた。私程度の国語力から見ても放り出したくなるほどの拙い訳があり、血の気が多かった若い頃には出版社に苦情のはがきを出したこともある。一方で、翻訳者に感謝したくなるような素晴らしい訳もあった。近年読んだ翻訳で、ことに印象に残ったものとして頭に浮かぶのが、映画にもなった「さゆり」である。
この小説(原題 "Memoirs of a Geisha")は、芸妓 Sayuri が日本語で語った回想を「私」が録音して英語にした、という体裁を取っている。翻訳を読んで唸らされたのは、まさに「さゆり」が語ったことばそのものと思わされるほど、見事な日本語になっていることだった。
出てくる人物や固有名詞、文物が日本のものなので、もともといかようにも日本語に引きつけて訳すことができる利点は確かにある(脱線だが、日本人ではない登場人物にいかにも和風の言い回しや慣用表現を使わせている翻訳があるが、私は多くの場合、うまいと思うより、むしろ違和感を覚える。難しいものだ)。また、あとがきで訳者(関東の人)は、京ことばや舞踊、着物の用語について、何人もの関係者に協力を仰いだと書いている。
しかし、そうしたことを考えても素晴らしい出来だと思う。私は翻訳を読んだあと、原文がどうなっているのか知りたくなり、ペーパーバックを買ってしまったほどだ。
私は訳者と同じく「東男」なので、翻訳の京ことばについて語る資格はないが、それでも、ところどころ比べてみて、いかに原文をときほぐして日本語に移したか、感心することしきりだった。
例えば、登場人物の会話を描写した部分として、
これが、次のように訳されている。
さゆりの地の語りでは、例えば、
この部分は、
この小説は、海外の読者が日本に対してある種の固定観念や誤解を抱きかねない要素を孕んでいるといえそうだ。また著者 Arthur Golden は、作品を書くにあたって実際の芸妓を取材したが、その時の取り決めを破って彼女、ミネコ・イワサキの実名を明かしたということで、不都合を被ったとするこの芸妓から訴えられてもいる。
そうした点で、やや「いわくつき」の作品かもしれないが、美しく素晴らしい日本語で味わえる翻訳は、もしかしたら原書で読むより楽しめるのではないかと思っている。実は私も、ペーパーバックを持っていながらまだ通読はしていないままである。
この小説(原題 "Memoirs of a Geisha")は、芸妓 Sayuri が日本語で語った回想を「私」が録音して英語にした、という体裁を取っている。翻訳を読んで唸らされたのは、まさに「さゆり」が語ったことばそのものと思わされるほど、見事な日本語になっていることだった。
出てくる人物や固有名詞、文物が日本のものなので、もともといかようにも日本語に引きつけて訳すことができる利点は確かにある(脱線だが、日本人ではない登場人物にいかにも和風の言い回しや慣用表現を使わせている翻訳があるが、私は多くの場合、うまいと思うより、むしろ違和感を覚える。難しいものだ)。また、あとがきで訳者(関東の人)は、京ことばや舞踊、着物の用語について、何人もの関係者に協力を仰いだと書いている。
しかし、そうしたことを考えても素晴らしい出来だと思う。私は翻訳を読んだあと、原文がどうなっているのか知りたくなり、ペーパーバックを買ってしまったほどだ。
私は訳者と同じく「東男」なので、翻訳の京ことばについて語る資格はないが、それでも、ところどころ比べてみて、いかに原文をときほぐして日本語に移したか、感心することしきりだった。
例えば、登場人物の会話を描写した部分として、
"Auntie, are you suggesting that I had something to do with ruining that kimono?" Hatsumomo said. "Why would I do such a thing?"
"Everyone knows how you hate Mameha," Auntie told her. "You hate anyone more successful than you."
"Does that suggest I ought to be extremely fond of you, Auntie, since you're such a failure?"
"There'll be none of that," said Mother. "Now you listen to me, Hatsumomo. You don't really think anyone is empty-headed enough to believe your little story. I won't have this sort of behavior in the okiya, even from you."
これが、次のように訳されている。
「いややわあ、小母(あば)、着物がわやになったん、うちにも関わりがあるて言わはるのどすか。何でうちがそんなことせんなりまへんの」
「そうかて、おうちが豆葉さん嫌(きろ)てんのは、知らん者のおへんことどっしゃろ。羽振りでかなわん相手は、みなお嫌いなんどしなたなあ」
「そやったら、小母は好きで好きでかなんいうことになりますにゃろか。尾羽打ち枯らしてはるのやし」
「ええかげんにしなはれ」おかあさんが言いました。「あんなあ、初桃さん、あんたの出まかせ本気にするような素惚(すぼけ)がどこにいているか、あんたかてわかってまっしゃろ。この家で勝手な真似は許さしまへん。何ぼあんたかてそうどっせ。」
さゆりの地の語りでは、例えば、
I watched him walk away with sickness in my heart -- though it was a pleasing kind of sickness, if such a thing exists. I mean to say that if you have experienced an evening more exciting than any in your life, you're sad to see it end; and yet you still feel grateful that it happened. In that brief encounter with the Chairman, I had changed from a lost girl facing a lifetime of emptiness to a girl with purpose in her life. Perhaps it seems odd that a casual meeting on the street could have brought about such a change. But sometimes life is like that, isn't it?
この部分は、
歩いていく会長さんを見送って、胸が苦しくなりました。心地のよい苦しさといっておわかりいただければ、そのようなものなのですが、そうですねえ、たとえば、またとない心のはずむ夜があったといたしましょうか。これが終わってしまうのは悲しいことですけれども、そんな夜があったということは、うれしゅうございましょう。ああして束の間でもお会いできたおかげで、人生の虚しさにやりきれなくなっていた私が、生きる張り合いを持てるようになったのです。たまたま往来で誰かに会ったくらいで、そうまで変わることがあるのかとご不審かもしれませんね。でも、人が生きるというのは、そういうものではありませんか。
この小説は、海外の読者が日本に対してある種の固定観念や誤解を抱きかねない要素を孕んでいるといえそうだ。また著者 Arthur Golden は、作品を書くにあたって実際の芸妓を取材したが、その時の取り決めを破って彼女、ミネコ・イワサキの実名を明かしたということで、不都合を被ったとするこの芸妓から訴えられてもいる。
そうした点で、やや「いわくつき」の作品かもしれないが、美しく素晴らしい日本語で味わえる翻訳は、もしかしたら原書で読むより楽しめるのではないかと思っている。実は私も、ペーパーバックを持っていながらまだ通読はしていないままである。
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