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村上春樹の「総称のyou」論 [文法・語法]

先日、「バベルの謎」の著者が、「ある文化の特質は、かえってそこに生まれ育った人にはわからず、異文化に育ったからこそ見えてくる場合がある」と書いていることを紹介した。それで連想したのが、不特定の人を指す you についての、作家の村上春樹氏の意見である。

村上氏は、自身が訳した「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(「ライ麦畑でつかまえて」の新訳)で、いわゆる総称の you を「君」と訳している。これについて氏は雑誌の対談などで、「you という架空の『語りかけられ手』は、この作品で意外に大きな意味を持つ。それがいったい誰か、というのも小説のひとつの仕掛けだ」という考えに基づいて意図的に訳した、と述べている。

ところがこれについては、複数のネイティヴスピーカーが適切でないと指摘している。その一人がマーク・ピーターセン氏である。

著書「ニホン語、話せますか?」の中でピーターセン氏は、村上氏の発言を引用したうえで、「架空の『語りかけられ手』というものは存在しない。you は誰のことでもなく、英語の構成上必要な代名詞に過ぎない」として、「君」と訳すのは適切でないと述べている。また、村上氏の作品の英訳を手がけているアメリカ人の翻訳者も、同様の指摘しているという。

こうした指摘について村上氏は、翻訳家で東大教授の柴田元幸氏の著書「翻訳教室」の中で、「僕はそうは思わない。アメリカ人は、実体のない you だというが、本当は実体はある。彼らが気づいていないだけで、彼らの頭の中には存在しない。でも日本人である僕らが見るとそれが存在しているのがわかる。翻訳というのはネイティヴに訊けばわかるというものではない」と述べている。

「アメリカ人は気づいていない」ということは、作者のサリンジャー自身も、たぶんそうした意識なしに執筆したということになりそうだ。原作者も意図していなかったであろうことを、外国人が「深読み」するのは、文芸作品だからありうる、許されるようにも思えるが、大変刺激的な考えであると思った。

この you については、実は柴田元幸氏が、同じ「翻訳教室」の別の章で、ちょっと違った視点から書いている。

柴田氏は、ある演習の課題文(「キャッチャー…」ではない)の学生訳に対するコメントの中で、「人間一般を指す you が出てきたとき、訳してない答案が多く、それで不自然な日本語になっている。たぶん予備校などで、人間一般を指す you は訳さないと教わって、それに従っているのだろう。それもひとつの知恵だが、日本語として自然でなければ話にならない」と述べている。柴田氏はその課題文の you を「君」と訳している。

原文の you が透けて見えるような拙い訳は、もちろん願い下げだが、確かに、自然な日本語になってさえいれば、「君」とはっきり訳すことは、特に文芸翻訳では効果的な場合もあるように思う。

翻訳や日本語表現の観点から柴田氏が導き出した経験則は、はからずも村上氏と一致しているというわけだ。と同時に、村上氏の「you の語りかけられ手」をどう考えるか、柴田氏の個人的な意見も聞いてみたいものだと思った。


翻訳教室

翻訳教室

  • 作者: 柴田 元幸
  • 出版社/メーカー: 新書館
  • 発売日: 2006/02
  • メディア: 単行本


ニホン語、話せますか?

ニホン語、話せますか?

  • 作者: マーク・ピーターセン
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2004/04/22
  • メディア: 単行本


タグ:英語参考書
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コメント 4

miki

はじめまして。

The Catcher in the Ryeのyouが「語りかけられ手」で「誰か?」というしかけがある、と考えて、本を引っ張り出してきて読んだら、なんだか疲れてしまいました。。(^_^;
おもしろい解釈ですね。本当のところはどうだったんでしょうか?
興味深い記事ありがとうございました。
by miki (2007-06-13 09:23) 

子守男

miki さん、コメントありがとうございました。
私は「ライ麦畑」の翻訳を大昔に眺めたという記憶しかありませんが、この旧訳も「君」が使われていました。あの作品を「君」(あるいはそれに相当する代名詞)を使わないで訳すとなるとどうなるか、という逆の興味もわきました。
by 子守男 (2007-06-14 00:45) 

たんご屋

ピーターセンさんは日本語ネイティブではありませんから「翻訳というのは(原語)ネイティヴに訊けばわかるというものではない」というのはそのとおりですね。
仮に「雪国」を知らない日本人がいたとして、The train came out of ... という原文にはない train を主語にした英訳を日本語に訳し戻したとしたら「列車は...」と訳すひとも多いような気がします。誤訳ではなくその人の文章の感覚ならそういう表現になるということでしょう。やはり文芸翻訳は訳者による新しい日本語作品なのだろうと思います。
柴田さんの本の件では学生さんのほうに共感します(笑)。柴田さんには叱られるのでしょうが、わたしならその課題文の you は訳しません。このくらい微妙なことになるとどちらが正しいということではなくて文章の個性の問題ではないでしょうか。
by たんご屋 (2007-06-14 08:47) 

子守男

たんご屋 さん、コメントありがとうございました。「君」がついていない学生訳は、私もおかしいとは思いませんでした。柴田氏も、「ここは『君』と訳してもそれほど不自然とは思わない」という言い方をしていて、「君」をつけないとダメだ、とは言っていないのですが、それでも「学生」君にはもっと反論してほしかったですね(笑)。

明らかな誤訳は別ですが、「自然な日本語」が何か、という線引きは難しいでしょう。例えば「何が彼女をそうさせたか」という文は、伝統的な日本語の文法からは不自然なのでしょうが、今では、特に不自然ではないと思う人もいるでしょう。こうした表現で、日本語が豊かになったと感じる人もいると思います。

また、村上春樹氏や柴田氏らのような訳が今後増えれば、総称をあらわす「君」が、日本語にも根づいていくかもしれませんね。

ところでピーターセン氏の著作のタイトルは、「日本人の英語」とか「ニホン語、話せますか?」など、見方によっては挑発的とも取れますね。まあ、日本語のできるネイティブ、ということで、編集サイドが考えたものなのでしょうが。
by 子守男 (2007-06-14 12:09) 

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