「夕凪の街 桜の国」(こうの 史代) [読んだ本]
私自身が親となった年に8月がやってきたとき、子供の寝顔を見ながら、ぼんやりと思った―自分が親と決定的に違うことがある。それは、戦争について自分の子供に語るべき直接の体験を持ち合わせていない、ということだ。
戦争中、私の両親はまだ子供だったうえ、田舎の街に育ったので、空襲を受けることもなかった。それでも、空襲警報の際の恐怖や耐乏生活、遠くを飛ぶ米軍機の編隊を見たことなど、私が幼い時に折に触れて聞かされた。当時の親を写した古い写真に見慣れぬ人物が一緒にいるので誰かと尋ねると、戦死しなければ私と会っていたはずの親族だと教えられた時の驚きは忘れない。
さらに、日本は唯一の被爆国という特別の体験がある。私が大学生の時のこと、いっしょに馬鹿話をしていた知り合いが、何かの拍子で「ヒロシマ」の話になったとたん、人が変わったように真面目になった。彼は広島の出身で、親族に被爆者がいたのだ。個人としてはじかに知らずとも、「民族としての記憶や体験」はこのようにして伝えられていくものなのだろう、と思った。
しかし、実際の体験を持つ人の数は、年を追うごとに少なくなっていく。実体験を持たない世代は「語り部」とはなりえず、さらに年の離れた次の世代への継承はだんだん難しくなっていく。
その一方で、そうした直接の体験を持たない自分たちに何ができるのかを探り、それを広く問いかけようという動きもしっかり存在すると思う。「民族としての記憶」の自己保存作用なのだろうか。そのひとつのあらわれが、広島出身の漫画家による「夕凪の街 桜の国」といえるだろう。
この漫画に、原爆の悲惨なシーンは皆無に近い。画もきれいだ。「はだしのゲン」などに比べれば、「ぬるい」という感想があってもおかしくないだろう。それでも、この作品は心に訴えかけるものを持っている。
作者は、原爆が投下された日そのものを描こうとしても、とうてい説得力を持ち得ないと気づいていたのだろう。この作品で取りあげられているのは、原爆が後の時代に落す影であり、原爆の記憶の継承であるが、それは作者の「逃げ」ではなく、原爆を知らない世代として何が描けるかを考えた末の解答だったに違いない。
また、登場人物の名前から物語の流れ、画の構図まで、短い作品ながらさまざまな工夫が凝らされている。内容ともども、こうしたていねいな仕事が、発表後、静かなブームを起こし、今年、映画化までされたのだと思う。
参考までに、この作品についての Wikipedia のURLをあげておく。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%95%E5%87%AA%E3%81%AE%E8%A1%97_%E6%A1%9C%E3%81%AE%E5%9B%BD
タグ:ヒロシマ
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