英訳「奥の細道」を読む~月日は百代の過客 [日本の文化]
先日、ドナルド・キーンによる芭蕉の「奥の細道」の英訳を手に入れ、他の翻訳とも比較しながら読んでいきたい、と書いた。そこで、かの有名な冒頭「月日は百代の過客」のくだりを読み比べてみた。
どんな作品であれ、冒頭の「つかみ」は大切だろうが、この書き出しの名調子、日本人であれば誰でもぐっとくるのではないか、と勝手に思っている。
この部分を Donald Keene は、
と訳している。「舟の上に生涯をうかべ」や「旅を栖とす」の訳はなるほどうまいものだ、と思う。ship には大きな船というイメージを持っており、私にはちょっとしっくり来ないが、実のところ「舟」はどうとらえるべきなのだろうか。
続いて、もうひとつ私が持っている Hiroaki Sato の英訳である。
wayfarer は a traveler, especially somebody who makes a journey on foot ( literary ) とオンライン辞書の Encarta にある。「舟」は boat としていて、私のイメージとしてはこちらの方がふさわしいように感じる。
他の訳も見てみよう。いずれも次のサイトに掲載されているものである。
http://darkwing.uoregon.edu/%7ekohl/basho/
先日書いたように、これは私が最初に読んだ英訳「奥の細道」の翻訳者である。「日々」を every minute としているのがちょっと面白い。
Life itself is a journey とまず述べる形にしているのは、結論を先に出す傾向があるという英語的発想によるものだろうか。これも「舟」に ship を使っている。
さらに、「月日」を「(地球の衛星の)月」と「太陽」と解釈している英訳がある。
私は原文を「歳月」と取っていたので、最初に見たときは違和感を覚え、誤訳ではないかと思った。ところが、気になったので書店で関係する本を読んだら、必ずしもそうではないことを知った。
英訳を見比べて見なければ、こうした解釈があることには気づかなかっただろう。何だか得したような気になった。
最後に脱線だが、この角川文庫の現代語訳は、言葉を補いすぎだと個人的には思う。なぜ「大空を運行する」とか「この人生を刻む」というような注釈的な言葉が必要なのだろうか。
天体であるという可能性を示したければ、それは注釈で説明すればよい。こう明記することで、芭蕉の思想の深さを示したいのかもしれないが、それは読者自身が読み取り、感じ取ればいいはずだ。例えば、次のような訳で十分ではないか。
「奥の細道」に限らず、こうした過剰な言葉を加えた古文の現代語訳を見ることがあるが、どうも余計なお節介ではないかと感じている。
関連記事:
英訳「奥の細道」
月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖とす。
どんな作品であれ、冒頭の「つかみ」は大切だろうが、この書き出しの名調子、日本人であれば誰でもぐっとくるのではないか、と勝手に思っている。
この部分を Donald Keene は、
The months and days are the travellers of eternity. The years that come and go are also voyagers. Those who float away their lives on ships or who grow old leading horses are forever journeying, and their homes are wherever their travels take them.
と訳している。「舟の上に生涯をうかべ」や「旅を栖とす」の訳はなるほどうまいものだ、と思う。ship には大きな船というイメージを持っており、私にはちょっとしっくり来ないが、実のところ「舟」はどうとらえるべきなのだろうか。
続いて、もうひとつ私が持っている Hiroaki Sato の英訳である。
The months and days are the wayfarers of a hundred generations, and the years that come and go are also travelers. Those who float all their lives on boats or reach their old age leading a horse by the bit make travel out of each day and inhabit travel.
wayfarer は a traveler, especially somebody who makes a journey on foot ( literary ) とオンライン辞書の Encarta にある。「舟」は boat としていて、私のイメージとしてはこちらの方がふさわしいように感じる。
他の訳も見てみよう。いずれも次のサイトに掲載されているものである。
http://darkwing.uoregon.edu/%7ekohl/basho/
Days and months are the travellers of eternity. So are the years that pass by. Those who steer a boat across the sea, or drive a horse over the earth till they succumb to the weight of years, spend every minute of their lives travelling.
(Nobuyuki Yuasa 訳)
先日書いたように、これは私が最初に読んだ英訳「奥の細道」の翻訳者である。「日々」を every minute としているのがちょっと面白い。
The passing days and months are eternal travellers in time. The years that come and go are travellers too. Life itself is a journey; and as for those who spend their days upon the waters in ships and those who grow old leading horses, their very home is the open road.
(Dorothy Britton 訳)
Life itself is a journey とまず述べる形にしているのは、結論を先に出す傾向があるという英語的発想によるものだろうか。これも「舟」に ship を使っている。
さらに、「月日」を「(地球の衛星の)月」と「太陽」と解釈している英訳がある。
Moon & sun are passing figures of countless generations, and years coming or going wanderers too. Drifting life away on a boat or meeting age leading a horse by the mouth, each day is a journey and the journey itself home.
(Cid Corman and Kamaike Susume 訳)
The sun and the moon are eternal voyagers; the years that come and go are travelers too. for those whose lives float away on boats, for those who greet old age with hands clasping the lead ropes of horses, travel is life, travel is home.
(Helen Craig McCullough 訳)
私は原文を「歳月」と取っていたので、最初に見たときは違和感を覚え、誤訳ではないかと思った。ところが、気になったので書店で関係する本を読んだら、必ずしもそうではないことを知った。
従来は、「月日」を一語と見て、単なる「時間」の意として解釈するものが大勢を占めていたが、近年では「月」「日」の二語に分け、宇宙観にまで及ぶような深い解釈をするもの、もしくはその両方の意味を重ねて読み取る説、などが出ている。
(「おくのほそ道 解釈辞典」 東京堂出版)
大空を運行する月や日は永遠にとどまることのない旅を続ける旅客であり、この人生を刻む、来ては去り去っては来る年もまた同じく旅人である。
(「新版 おくのほそ道」~現代語訳 角川文庫)
英訳を見比べて見なければ、こうした解釈があることには気づかなかっただろう。何だか得したような気になった。
最後に脱線だが、この角川文庫の現代語訳は、言葉を補いすぎだと個人的には思う。なぜ「大空を運行する」とか「この人生を刻む」というような注釈的な言葉が必要なのだろうか。
天体であるという可能性を示したければ、それは注釈で説明すればよい。こう明記することで、芭蕉の思想の深さを示したいのかもしれないが、それは読者自身が読み取り、感じ取ればいいはずだ。例えば、次のような訳で十分ではないか。
月日は永遠に旅を続ける旅客であり、毎年新旧交代する年もまた旅人である。
(「現代語対照 奥の細道」 旺文社文庫)
「奥の細道」に限らず、こうした過剰な言葉を加えた古文の現代語訳を見ることがあるが、どうも余計なお節介ではないかと感じている。
関連記事:
英訳「奥の細道」
にほんブログ村← 参加中です
とてもおもしろいですね。奥の細道は何回かとおして読んだことがありますが英訳を読んだことはありません。いろいろな訳があるのですね。わたしもそうですが、原文を説明なしで読むことのできないひとにとっては、英語のほうがかえって意味を理解しやすいのでは、と思いました。
by たんご屋 (2008-07-31 12:10)
大変興味深く拝読しました。奥の細道の冒頭は、高校時代を外国で過ごしてしまったゆえほとんど日本の古典を知らない私が覚えている、数少ない作品なのです。で、英訳を初めてこちらで読んでみて、受ける印象の違いに驚きました。というか、日本語のほうは「つきひははくたいのかかくにして」とほとんど音だけで入っているようなものなので、意味をわかっているつもりでも全くわかっていなかったのかもしれません。
それにしても「月」と「日」を分ける解釈は意外でしたね。
by favourite (2008-08-01 00:34)
たんご屋さん、コメントとトラックバックありがとうございました。古文は苦手な私なので、意味を取るのだったら英語の方がわかりやすいという作品は多いことでしょう。「奥の細道」も注釈なしでは読めませんが、それでもやはり、この冒頭のように、いいなと思う言葉に出会うと、やはり単に「意味がわかる」だけでは満たされないものがあるのだなと思います。
by 子守男 (2008-08-01 01:14)
favourite さん、ありがとうございました。英語の作品も翻訳によってずいぶんと印象が違うことがありますが、それと同じことなのでしょうね。
「月」と「日」をわける解釈は私も意外でした。そうした考えもあるのか、とは思いますが、刷り込みのせいか、正直なかなか馴染めない想いがするのも否めないところがあります。
by 子守男 (2008-08-01 01:18)