「ライ麦畑」と「キャッチャー」 [翻訳・誤訳]
作家のサリンジャーが先日死去した。新聞やテレビの報道を見て面白いなと思ったのは、私が触れた限りでは、みな代表作 The Catcher in the Rye を「ライ麦畑でつかまえて」として紹介していたことだ。新訳のタイトル「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の方は、使われないか、新訳が話題となったという文脈で出てきた。
「ライ麦畑~」が使われていたのは、やはり世間的にはまだ旧訳の題名の方が通りがいいと思われている(より厳密に言えば、記事を書いた人たちがそう考えている)ということなのだろう。
愛読者が多いというこの作品は、私も10代後半に旧訳で読んだ。その時は強い印象を受けたが、その場限りで終わってしまい、今では「読んだことがある」という程度の記憶しか残っていない。
ちなみに当時読んだ海外文学で最も印象に残ったのはヘッセの「デミアン」だったが、これも今読んだとして、かつてのような感銘を受けることができるだろうか。やはり「若い頃に読むべき作品はあるものだ」ということになりそうな気がする。
それはともかく、この作品が日本でも人気となった理由のひとつに、旧訳の邦題があるのではないか、と密かに思っている。タイトルだけを見ると、「ライ麦畑で(私を)つかまえて(くれ)」と言っているように取る人が多いのではないだろうか(私もそうだった)。しかし作品の中では、「(私が)ライ麦畑で(他人を)つかまえて(みたい)」という文脈で使われていたと記憶している。日本語の難しいところであり、かつ面白さを感じさせる例といえそうである。
そして、翻訳者あるいは当時の編集者が、誤解を与えるようなこの邦題の方が、むしろ一般の関心を引くのではないか」と考えたということはないだろうか、と想像したくなる(先日、「敗北を抱きしめて」と "Embracing Defeat" について、似たようなことを書いたばかりだが)。
「ライ麦畑~」に続く部分を英語と同じく名詞として訳す限り、どんな訳語をあてるにせよ、「~でつかまえて」ほどの効果はないように感じてしまう。そこに出版する側が目をつけたということはないだろうか。むろん、これはあくまで私の勝手な想像であるが。
新訳がタイトルを「キャッチャー~」としているのは、訳者の村上春樹氏のイメージにも沿っているし、時代も違うし、さらに、今も現役の旧訳と同じ出版社から出ていることも違うタイトルとした背景にあるのだろう、と思っていたら、「夏への扉」 The Door into Summer というSFの名作が、旧訳と同じ出版社から、同じタイトルで新訳が出ていることを書店で見つけて知った。
この作品も旧訳は現役だが、新訳については、さすがに原題に沿ったカタカナのタイトルにはしづらいだろうが、例えば「夏へのとびら」とする手はありそうなのに、と思った(ちなみに新訳を手がけたのは、名作「アルジャーノンに花束を」を訳した翻訳者である)。旧訳と変えなかったのは、出版社もいろいろ考えてのことなのだろうか。
ついでにまったくの連想と余談だが、サリンジャーは Salinger で、アルジャーノンは Algernon であり、私だったら、知らなければ「サリンガー」や「アルガーノン」と取りそうだ。綴り字と発音の一貫性のなさは本当に困りものである。
以上、サリンジャー死去の報に接して、とりとめのないことを考えたので書いてみた。「ライ麦畑~」といえば、以前、村上春樹氏の「総称の you をどうとらえるか」について紹介したことがあるので、参考までにあげさせていただく。
参考記事:
・村上春樹の「総称のyou」論
http://eigo-kobako.blog.so-net.ne.jp/2007-06-12
・「夏への扉」の新訳
http://eigo-kobako.blog.so-net.ne.jp/2010-02-22
・2つの「アルジャーノンに花束を」(続・印象に残った翻訳)
http://eigo-kobako.blog.so-net.ne.jp/2007-02-08
・hug と embrace
http://eigo-kobako.blog.so-net.ne.jp/2009-12-06
・abracadabra 「アブラカダブラ」「ちんぷんかんぷん」
http://eigo-kobako.blog.so-net.ne.jp/2013-08-01
「ライ麦畑~」が使われていたのは、やはり世間的にはまだ旧訳の題名の方が通りがいいと思われている(より厳密に言えば、記事を書いた人たちがそう考えている)ということなのだろう。
愛読者が多いというこの作品は、私も10代後半に旧訳で読んだ。その時は強い印象を受けたが、その場限りで終わってしまい、今では「読んだことがある」という程度の記憶しか残っていない。
ちなみに当時読んだ海外文学で最も印象に残ったのはヘッセの「デミアン」だったが、これも今読んだとして、かつてのような感銘を受けることができるだろうか。やはり「若い頃に読むべき作品はあるものだ」ということになりそうな気がする。
それはともかく、この作品が日本でも人気となった理由のひとつに、旧訳の邦題があるのではないか、と密かに思っている。タイトルだけを見ると、「ライ麦畑で(私を)つかまえて(くれ)」と言っているように取る人が多いのではないだろうか(私もそうだった)。しかし作品の中では、「(私が)ライ麦畑で(他人を)つかまえて(みたい)」という文脈で使われていたと記憶している。日本語の難しいところであり、かつ面白さを感じさせる例といえそうである。
そして、翻訳者あるいは当時の編集者が、誤解を与えるようなこの邦題の方が、むしろ一般の関心を引くのではないか」と考えたということはないだろうか、と想像したくなる(先日、「敗北を抱きしめて」と "Embracing Defeat" について、似たようなことを書いたばかりだが)。
「ライ麦畑~」に続く部分を英語と同じく名詞として訳す限り、どんな訳語をあてるにせよ、「~でつかまえて」ほどの効果はないように感じてしまう。そこに出版する側が目をつけたということはないだろうか。むろん、これはあくまで私の勝手な想像であるが。
新訳がタイトルを「キャッチャー~」としているのは、訳者の村上春樹氏のイメージにも沿っているし、時代も違うし、さらに、今も現役の旧訳と同じ出版社から出ていることも違うタイトルとした背景にあるのだろう、と思っていたら、「夏への扉」 The Door into Summer というSFの名作が、旧訳と同じ出版社から、同じタイトルで新訳が出ていることを書店で見つけて知った。
この作品も旧訳は現役だが、新訳については、さすがに原題に沿ったカタカナのタイトルにはしづらいだろうが、例えば「夏へのとびら」とする手はありそうなのに、と思った(ちなみに新訳を手がけたのは、名作「アルジャーノンに花束を」を訳した翻訳者である)。旧訳と変えなかったのは、出版社もいろいろ考えてのことなのだろうか。
ついでにまったくの連想と余談だが、サリンジャーは Salinger で、アルジャーノンは Algernon であり、私だったら、知らなければ「サリンガー」や「アルガーノン」と取りそうだ。綴り字と発音の一貫性のなさは本当に困りものである。
以上、サリンジャー死去の報に接して、とりとめのないことを考えたので書いてみた。「ライ麦畑~」といえば、以前、村上春樹氏の「総称の you をどうとらえるか」について紹介したことがあるので、参考までにあげさせていただく。
参考記事:
・村上春樹の「総称のyou」論
http://eigo-kobako.blog.so-net.ne.jp/2007-06-12
・「夏への扉」の新訳
http://eigo-kobako.blog.so-net.ne.jp/2010-02-22
・2つの「アルジャーノンに花束を」(続・印象に残った翻訳)
http://eigo-kobako.blog.so-net.ne.jp/2007-02-08
・hug と embrace
http://eigo-kobako.blog.so-net.ne.jp/2009-12-06
・abracadabra 「アブラカダブラ」「ちんぷんかんぷん」
http://eigo-kobako.blog.so-net.ne.jp/2013-08-01
タグ:日本語
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