「夏への扉」の新訳 [翻訳・誤訳]
先日ちょっと触れた、ロバート・A・ハインラインの小説「夏への扉」の新訳を店頭で見て、旧訳を持っているにもかかわらず、手に取ってレジに向かってしまった。再読してみようと思わせる名作だからだが、やはり新しい訳に対する興味もあった。さらに、夏が好きな私なので、旧訳よりも夏の雰囲気を前面に押し出しているカバー画の効果もあったかもしれない(作中に登場するネコを描いているのは共通している)。
この週末に読了したが、読みやすい訳だなと思った。異なる翻訳者による旧訳は、今も同じ出版社から出ていて現役だが、そちらが読みづらいというわけではない。それでも、新訳の方が「やわらかさ」とでもいうようなものを感じさせる。この作品を今の時代に読む人にふさわしい翻訳といえそうで、私のように、かつて旧訳を読んだ人も楽しめるだろう。
1950年代に発表されたこの作品は、1970年に生きる主人公が冷凍睡眠で2000年に覚醒し、さらに過去にタイムトラベルするという内容である。つまり作者が描いた未来は、今の読者にとってはもう過去になってしまっている。原作の発表からほどなくして出た旧訳と比べて、より「ほぐれた」感じがする新訳は、過去になってしまった架空の未来を描いたファンタジー小説として、よりすんなり読むことができそうだ、と思った。
私はこの作品を原文で読んだことはないが、もしかしたら「実現しなかった未来」の描写に、古さを感じてしまうかもしれない。新しい翻訳で読んだ方が、かえって原文よりも愉しめる、そんな不思議なこともあるかもしれない、と考えるとちょっと面白くなった。
ちょっとした例だが、作中に出てくる家事ロボットのブランド名が、旧訳は「文化女中器」だったのが、新訳では「おそうじガール」となっている。「ハイヤード・ガール」と振り仮名がついているので、原語は hired girl であることがわかる。
ということで、「女中」でも間違いではないのだが、この言葉はもう事実上死語といえるのではないだろうか。原語も、英語のネイティブではない私だが、今の時代にはそぐわないのではないかと想像してしまう。その点、「おそうじガール」はそうした時代性を感じさせないと同時に、商品の呼び名として実際に使うとしたらちょっとコミカルに思えるのが、「虚構の未来」らしくていいと思った。
というわけで、なかなか気に入った新訳ではあるが、一点残念だったのは、作品の最後の一文については、私には旧訳の方が印象深く、こちらに軍配をあげたくなってしまうことである。ここだけ引用しても内容のネタバレにはならないと思うので、比べてみよう。
まあこれも実のところ、旧訳の刷り込み効果によるところが大きいのかもしれない。
この作品はハッピーエンドで終わるが、それは「将来は今より良くなるだろう」という希望を持てた時代を反映しているような気がする。同じような設定でも、今だったらこういう風には書けまい。そしてこの作品が、描いている「未来」をとっくに通り過ぎてしまった今も読み継がれているのは、読み手にそうした過去の時代への憧憬をかき立てるからかもしれない、と思ったりもした。
参考記事:
・「ライ麦畑」と「キャッチャー」
http://eigo-kobako.blog.so-net.ne.jp/2010-02-01
この週末に読了したが、読みやすい訳だなと思った。異なる翻訳者による旧訳は、今も同じ出版社から出ていて現役だが、そちらが読みづらいというわけではない。それでも、新訳の方が「やわらかさ」とでもいうようなものを感じさせる。この作品を今の時代に読む人にふさわしい翻訳といえそうで、私のように、かつて旧訳を読んだ人も楽しめるだろう。
1950年代に発表されたこの作品は、1970年に生きる主人公が冷凍睡眠で2000年に覚醒し、さらに過去にタイムトラベルするという内容である。つまり作者が描いた未来は、今の読者にとってはもう過去になってしまっている。原作の発表からほどなくして出た旧訳と比べて、より「ほぐれた」感じがする新訳は、過去になってしまった架空の未来を描いたファンタジー小説として、よりすんなり読むことができそうだ、と思った。
私はこの作品を原文で読んだことはないが、もしかしたら「実現しなかった未来」の描写に、古さを感じてしまうかもしれない。新しい翻訳で読んだ方が、かえって原文よりも愉しめる、そんな不思議なこともあるかもしれない、と考えるとちょっと面白くなった。
ちょっとした例だが、作中に出てくる家事ロボットのブランド名が、旧訳は「文化女中器」だったのが、新訳では「おそうじガール」となっている。「ハイヤード・ガール」と振り仮名がついているので、原語は hired girl であることがわかる。
- 雇い女、女中、(特に)農家の雑役婦
(ランダムハウス英和大辞典)
- a female domestic servant
(The New Oxford American Dictionary)
ということで、「女中」でも間違いではないのだが、この言葉はもう事実上死語といえるのではないだろうか。原語も、英語のネイティブではない私だが、今の時代にはそぐわないのではないかと想像してしまう。その点、「おそうじガール」はそうした時代性を感じさせないと同時に、商品の呼び名として実際に使うとしたらちょっとコミカルに思えるのが、「虚構の未来」らしくていいと思った。
というわけで、なかなか気に入った新訳ではあるが、一点残念だったのは、作品の最後の一文については、私には旧訳の方が印象深く、こちらに軍配をあげたくなってしまうことである。ここだけ引用しても内容のネタバレにはならないと思うので、比べてみよう。
- そしてもちろん、ぼくはピートの肩を持つ。(旧訳)
- そう、ピートが正しいのだとぼくは思う。(新訳)
まあこれも実のところ、旧訳の刷り込み効果によるところが大きいのかもしれない。
この作品はハッピーエンドで終わるが、それは「将来は今より良くなるだろう」という希望を持てた時代を反映しているような気がする。同じような設定でも、今だったらこういう風には書けまい。そしてこの作品が、描いている「未来」をとっくに通り過ぎてしまった今も読み継がれているのは、読み手にそうした過去の時代への憧憬をかき立てるからかもしれない、と思ったりもした。
参考記事:
・「ライ麦畑」と「キャッチャー」
http://eigo-kobako.blog.so-net.ne.jp/2010-02-01
タグ:SF
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ユーモラスで力強い言葉の旧訳が自分は好きです。
これまでの長い物語をギュっと引き締めてくれる最高の読後感を与えてくれる一文でした。
この一言が最後に付いているからこそ名作なのでは無いかと考えてしまうほど、初めて読んだ時は心を揺さぶられたものです。
by NO NAME (2015-08-11 22:08)
5年前のエントリをお読みいただきありがとうございました。
ここ何年か、昔読んだ本の改訳が増えている感があります。中には旧訳の方が(もしかしたら細かい誤訳は新訳より多いのかもしれませんが)「読ませる」日本語になっているものもあるように思います。
「夏への扉」は、今も旧訳を書店で見かけるので、引き続き支持している読者がいるということなのでしょうね。私としては最後の文はこちらの方が好みということは変わらず、旧訳は手放せません。
by tempus fugit (2015-08-11 22:30)