「不思議の国のアリス」の新訳 [翻訳・誤訳]
前回、「不思議の国のアリス」のいろいろな訳書を書店で手に取ってみたことを書いた。antipathies がどう訳されているかを見るためだが、それ以外の部分も拾い読みをして比べてみた。
言葉遊びが特徴の作品だけに、どの翻訳もいろいろと工夫し、また苦心しているさまが見て取れる。その中でも「うまいな」と思って購入したのが、出版されてまもない河合祥一郎氏による新訳だった。
直訳では伝わらない言葉遊びを日本語で表現する工夫をこらしているのは他の翻訳と同じだが、この新訳には他にも優れた点が感じられる。
例えば、「アリス」には冒頭に詩が出てくるが、この翻訳では原文が韻をふんでいることがはっきりとわかるように訳されている。他の翻訳では気がつかなかった点である(もちろん、過去のすべての翻訳を知っているわけではないので、これまでそうした訳がなかったといいたいわけではない)。
また、"Do cats eat bats?" と考えていたアリスが、うとうとしてきて "Do bats eat cats?" という独り言に変わってしまう場面がある。見た範囲では、そのまま「ねこはこうもりを食べるか」「こうもりはねこを食べるか」、あるいは「ねこは」を「ねこを」と助詞を入れ替える、といった形で訳しているものが多い。先日取り上げた別宮定徳氏の解説書も、cat と bat の音が似ている面白さについての指摘はあるものの、訳はつけていない。
この部分を河合氏は、「ネコってコウモリ食べる?ネコ…ウモリ食べる?」「ネ…コウモリって食べる? ねぇ、コウモリってネコ食べる?」というようにして、眠くなってきたアリスの言葉が変わっていくさまを描いている。言葉遊びとしての工夫をして訳してあり、うまいものだと思う。
「訳者あとがき」には、
と書かれていて、翻訳者自身も自信の訳業だったようだ。
もうひとつ個人的に印象に残ったのは、物語の最後の部分だ。この翻訳では原文と同じ言葉で終わるように訳していて、それが余韻を感じさせる。
原文は、最後の言葉が味わいを醸し出しているのだが、他の「アリス」の翻訳は、見た限りでは日本語としては当然のように述語で文を終らせていて、原文の最後の部分は先に出てきてしまう。
むりやり英語の語順にあわせて訳す必要は必ずしもないだろうし、それで日本語として不自然になってしまうのでは意味がないが、河合氏の訳は、無理を感じさせずに原文通りの言葉で終わらせていて、効果をあげている。
ネタバレになるが、この最後の部分は、今は幼いアリスが大きくなったら、自分が子どもだった頃や不思議の国での冒険をどう思い出すだろうか、といった内容である。私にはちょうどアリスと同じくらいの年齢の娘がいるので、そんな内容とあいまって、この部分の訳をいっそう印象深く感じたのかもしれない。
さて、河合祥一郎氏の名前をどこかで見たような気がしていたが、以前ここで取り上げた「新訳 ハムレット」の訳者であることに気づいた。その時も、自然な日本語ですぐれた翻訳だと思ったということを書いたが、文学作品を翻訳するには、単に英語の読解力がすぐれているだけではダメで、言葉や文学のセンスが豊かでないとだめなのだな、とあらためて思い知らされた。
過去の参考記事:
・「ハムレット」の名セリフの訳
言葉遊びが特徴の作品だけに、どの翻訳もいろいろと工夫し、また苦心しているさまが見て取れる。その中でも「うまいな」と思って購入したのが、出版されてまもない河合祥一郎氏による新訳だった。
直訳では伝わらない言葉遊びを日本語で表現する工夫をこらしているのは他の翻訳と同じだが、この新訳には他にも優れた点が感じられる。
例えば、「アリス」には冒頭に詩が出てくるが、この翻訳では原文が韻をふんでいることがはっきりとわかるように訳されている。他の翻訳では気がつかなかった点である(もちろん、過去のすべての翻訳を知っているわけではないので、これまでそうした訳がなかったといいたいわけではない)。
また、"Do cats eat bats?" と考えていたアリスが、うとうとしてきて "Do bats eat cats?" という独り言に変わってしまう場面がある。見た範囲では、そのまま「ねこはこうもりを食べるか」「こうもりはねこを食べるか」、あるいは「ねこは」を「ねこを」と助詞を入れ替える、といった形で訳しているものが多い。先日取り上げた別宮定徳氏の解説書も、cat と bat の音が似ている面白さについての指摘はあるものの、訳はつけていない。
この部分を河合氏は、「ネコってコウモリ食べる?ネコ…ウモリ食べる?」「ネ…コウモリって食べる? ねぇ、コウモリってネコ食べる?」というようにして、眠くなってきたアリスの言葉が変わっていくさまを描いている。言葉遊びとしての工夫をして訳してあり、うまいものだと思う。
「訳者あとがき」には、
この翻訳では洒落のみならず、詩のライム(脚韻)に至るまで、その楽しさがわかるように訳出を試みました。それがこの翻訳の画期的なところだと自負しています。
(中略)
アリスの物語は原書を読まないと楽しめないと言われてきましたが、そのおもしろさを日本語で味わっていただけるように努めました。
と書かれていて、翻訳者自身も自信の訳業だったようだ。
もうひとつ個人的に印象に残ったのは、物語の最後の部分だ。この翻訳では原文と同じ言葉で終わるように訳していて、それが余韻を感じさせる。
原文は、最後の言葉が味わいを醸し出しているのだが、他の「アリス」の翻訳は、見た限りでは日本語としては当然のように述語で文を終らせていて、原文の最後の部分は先に出てきてしまう。
むりやり英語の語順にあわせて訳す必要は必ずしもないだろうし、それで日本語として不自然になってしまうのでは意味がないが、河合氏の訳は、無理を感じさせずに原文通りの言葉で終わらせていて、効果をあげている。
ネタバレになるが、この最後の部分は、今は幼いアリスが大きくなったら、自分が子どもだった頃や不思議の国での冒険をどう思い出すだろうか、といった内容である。私にはちょうどアリスと同じくらいの年齢の娘がいるので、そんな内容とあいまって、この部分の訳をいっそう印象深く感じたのかもしれない。
さて、河合祥一郎氏の名前をどこかで見たような気がしていたが、以前ここで取り上げた「新訳 ハムレット」の訳者であることに気づいた。その時も、自然な日本語ですぐれた翻訳だと思ったということを書いたが、文学作品を翻訳するには、単に英語の読解力がすぐれているだけではダメで、言葉や文学のセンスが豊かでないとだめなのだな、とあらためて思い知らされた。
過去の参考記事:
・「ハムレット」の名セリフの訳
タグ:日本語
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