"the woman" をどう訳すか(「ボヘミアの醜聞」シャーロック・ホームズ) [シャーロック・ホームズ]
シャーロック・ホームズ譚について続ける。ホームズ物語の第1作は、これまでも何回か触れたことがある中編の「緋色の研究」 A Study in Scarlet だが、人気が出たのは、短編を雑誌に連載するようになってからだ。その短編第1作「ボヘミアの醜聞」 A Scandal in Bohemia は、次のような印象的な一文で始まる。
- To Sherlock Holmes she is always the woman.
すでにホームズが何者か知っている読者も、そうでない人も、she とは誰か、定冠詞をつけて呼ばれる女性とホームズがどんな関係にあるのか、そんな想像をかき立てられたのではないかと思う。
恋愛関係にあるのかと考える人が多いだろうが、すぐにそれは否定される。
- It was not that he felt any emotion akin to love for Irene Adler. All emotions, and that one particularly, were abhorrent to his cold, precise but admirably balanced mind. He was, I take it, the most perfect reasoning and observing machine that the world has seen
(後略)
というように、恋愛感情ではないこと、女性が Irene Adler という名前であること、そしてホームズが比類のない推理・観察力を持つ人物であることが語られる。では、女嫌いらしいホームズにとって "the woman" である Irene とは何者なのか、具体的にどんな関係なのか、と気になって、さらに先を読むことになる。
私が初めてこの作品を読んだのは翻訳によってだったが、ホームズ物語に興味を持つようになってから、翻訳者によって "the woman" の訳が違うのに気づき、面白いと思った。
というわけで、いま自宅にある本や、書店で手に入る翻訳からこの部分をメモしてみた。カッコ内は振り仮名で表記されている。
- 1. シャーロック・ホームズは彼女のことをいつでも「あの女(ひと)」とだけいう。
- 2. シャーロック・ホームズにとって、彼女はつねに「あの女性(ひと)」である。
- 3. シャーロック・ホームズにとって、彼女はいつも「あの女(ひと)」だ。
- 4. シャーロック・ホームズにとって、彼女はいつも「あの女」だ。
- 5. 世間の人たちには、正体不明の、あやしい女として知られている、アイリーン=アドラー。シャーロック・ホームズは、彼女のことを、いつも<あの女性(じょせい)>とだけいう。(注・児童向け翻訳)
個人的な好みからすると、実はどれも居心地が悪い。まず、はじめの3つの「あの(ひと)」だが、女性をこう呼ぶのは、恋愛感情があるようなニュアンスを感じさせる(あくまで私の受け取り方であり、そんなことはないという考える人もいるだろうが)。
加えて、この小説はホームズの友人ワトソンが語り手となっているので、ホームズはワトソンに対し、口に出して "the woman" と使っていたと考えられる。であれば翻訳もそれにあわせて、そのまま「あのひと」と書けばいいはずだ。その「ひと」を、「女」とするのか「女性」とするかのという表記の問題は、話し言葉では意味をなさないのだから。女性であることは、その前に「彼女」とあるので明白だ。
次に 4 の「あの女」だが(これは普通に「おんな」と読めばいいのだろう)、この作品では別のところに
- And when he speaks of Irene Adler, or when he refers to her photograph, it is always under the honourable title of the woman.
とある。敬意をこめてこう呼んでいるので、「女」だけだと、そうした感じが伝わらないのではないだろうか。
ところでこの 4 の訳を書店で立ち読みしていたら、不思議なことに気づいた。上記の (the honourable title of) the woman のところを、「あの女」ではなく「あの婦人」としているのだ。同じ the woman なのに訳し分けるのは、私としては奇妙に思う。
それはともかく、この「婦人」も悪くないと思ったが、古風に過ぎるか。結局、「あの女性」が個人的には最も抵抗がない。まあ本当のところは、「あの女性」も口にするには不自然といえば不自然な日本語だが、ではどう呼べばいいのかといわれるといい考えが浮かばない。
ということで、多少不自然でも、ホームズにとって特別な存在であるということが「あの女性」で伝わってくる、ということにしてしまおうか。
この点で 5 はいいのだが、原文と違っていきなり「彼女」の正体に触れているのが残念だ。児童向けなので、そもそも他の翻訳と比べるべきではないのだろうけど(それにしては読点が多いと思う)。
さてそこで、今回新しい翻訳によるホームズ全集の刊行が始まったときは、この部分はどうしているか興味があった。見ると、
- 6. シャーロック・ホームズにとって、彼女はいつの場合にも”あの女性”である。
となっていて、私の好みにはしっくりくるものだった。
以上、いろいろ書いてきたが、私とまったく違う考えを持つ人もいるだろう。いくつもの翻訳があって、それをあれこれ比べることができる作品はそう多くないから、ぜいたくなことではある。
- To Sherlock Holmes she is always the woman.
すでにホームズが何者か知っている読者も、そうでない人も、she とは誰か、定冠詞をつけて呼ばれる女性とホームズがどんな関係にあるのか、そんな想像をかき立てられたのではないかと思う。
恋愛関係にあるのかと考える人が多いだろうが、すぐにそれは否定される。
- It was not that he felt any emotion akin to love for Irene Adler. All emotions, and that one particularly, were abhorrent to his cold, precise but admirably balanced mind. He was, I take it, the most perfect reasoning and observing machine that the world has seen
(後略)
というように、恋愛感情ではないこと、女性が Irene Adler という名前であること、そしてホームズが比類のない推理・観察力を持つ人物であることが語られる。では、女嫌いらしいホームズにとって "the woman" である Irene とは何者なのか、具体的にどんな関係なのか、と気になって、さらに先を読むことになる。
私が初めてこの作品を読んだのは翻訳によってだったが、ホームズ物語に興味を持つようになってから、翻訳者によって "the woman" の訳が違うのに気づき、面白いと思った。
というわけで、いま自宅にある本や、書店で手に入る翻訳からこの部分をメモしてみた。カッコ内は振り仮名で表記されている。
- 1. シャーロック・ホームズは彼女のことをいつでも「あの女(ひと)」とだけいう。
- 2. シャーロック・ホームズにとって、彼女はつねに「あの女性(ひと)」である。
- 3. シャーロック・ホームズにとって、彼女はいつも「あの女(ひと)」だ。
- 4. シャーロック・ホームズにとって、彼女はいつも「あの女」だ。
- 5. 世間の人たちには、正体不明の、あやしい女として知られている、アイリーン=アドラー。シャーロック・ホームズは、彼女のことを、いつも<あの女性(じょせい)>とだけいう。(注・児童向け翻訳)
個人的な好みからすると、実はどれも居心地が悪い。まず、はじめの3つの「あの(ひと)」だが、女性をこう呼ぶのは、恋愛感情があるようなニュアンスを感じさせる(あくまで私の受け取り方であり、そんなことはないという考える人もいるだろうが)。
加えて、この小説はホームズの友人ワトソンが語り手となっているので、ホームズはワトソンに対し、口に出して "the woman" と使っていたと考えられる。であれば翻訳もそれにあわせて、そのまま「あのひと」と書けばいいはずだ。その「ひと」を、「女」とするのか「女性」とするかのという表記の問題は、話し言葉では意味をなさないのだから。女性であることは、その前に「彼女」とあるので明白だ。
次に 4 の「あの女」だが(これは普通に「おんな」と読めばいいのだろう)、この作品では別のところに
- And when he speaks of Irene Adler, or when he refers to her photograph, it is always under the honourable title of the woman.
とある。敬意をこめてこう呼んでいるので、「女」だけだと、そうした感じが伝わらないのではないだろうか。
ところでこの 4 の訳を書店で立ち読みしていたら、不思議なことに気づいた。上記の (the honourable title of) the woman のところを、「あの女」ではなく「あの婦人」としているのだ。同じ the woman なのに訳し分けるのは、私としては奇妙に思う。
それはともかく、この「婦人」も悪くないと思ったが、古風に過ぎるか。結局、「あの女性」が個人的には最も抵抗がない。まあ本当のところは、「あの女性」も口にするには不自然といえば不自然な日本語だが、ではどう呼べばいいのかといわれるといい考えが浮かばない。
ということで、多少不自然でも、ホームズにとって特別な存在であるということが「あの女性」で伝わってくる、ということにしてしまおうか。
この点で 5 はいいのだが、原文と違っていきなり「彼女」の正体に触れているのが残念だ。児童向けなので、そもそも他の翻訳と比べるべきではないのだろうけど(それにしては読点が多いと思う)。
さてそこで、今回新しい翻訳によるホームズ全集の刊行が始まったときは、この部分はどうしているか興味があった。見ると、
- 6. シャーロック・ホームズにとって、彼女はいつの場合にも”あの女性”である。
となっていて、私の好みにはしっくりくるものだった。
以上、いろいろ書いてきたが、私とまったく違う考えを持つ人もいるだろう。いくつもの翻訳があって、それをあれこれ比べることができる作品はそう多くないから、ぜいたくなことではある。
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ご無沙汰しております。ホームズ関連の記事が続いてうれしいです。
正直、英語に弱い貧乏読者としては、いろいろな翻訳より完璧な翻訳が一つある方がありがたいのですが、なかなか難しいでしょうね。womanのニュアンスや、当時の女性観、the honourable titleにワトソンの皮肉的もしくは好意的解釈があるのかないのか、というところがよくわからず、ひょっとすると「あの女(おんな)」もあり得るのかも(会話でホームズが言いやすそう)と思わなくもないのですが、私にはさっぱりどの訳がぴったりなのかわかりません。
by ぐうたらぅ (2011-04-09 03:57)
ホームズについて、いつもあっと驚くような独創的な視点を開陳しておられるぐうたらぅさんだけに、the woman についてもいろいろなことを考えておられるのですね。「あの女(おんな)」という訳については、私は単純に、これだとちょっとぞんざいだな、ホームズがアイリーン嬢のことをいまいましく思っている(と明記されている)のならこれもありだが、と思った程度でした。
私個人が、会話でホームズが言いそう、というより、ホームズに言わせたいと思っているのは、実は、「あのご婦人」とか「例のご婦人」というものなのですが、これだと大時代的だと笑われそうですね。
by 子守男 (2011-04-15 01:24)