辞書に載っていない Barkis is willing. [辞書に載っていない表現]
前回に続き、辞書に載っていない表現について。小説「人形つかい」の原書には、Barkis is willing. という言い回しが何回か出てくる。慣用表現のようだが、辞書には見当たらなかった。
私が気づいたものを、番号をつけて順番に列挙してみよう。
1. "Never any violence with me; I'm more the 'Barkis-is-willing' type."
2. "Well, note it down that Miss Barkis is not willing, at least not this evening."
3. "Hello," she answered, "and now, good-by. Miss Barkis still ain't willin' and I've got work to do."
4. "Sam, no matter what you think of me, I want to tell you that I am deeply grateful for what you did for me. Uh, Miss Barkis is willing, Sam--you understand me?"
(Robert A. Heinlein: The Puppet Masters)
インターネットで調べると、答えは簡単に見つかった。これは、チャールズ・ディケンズの小説「デイヴィッド・コパフィールド」 に出てくる言葉で、「準備ができている」、「(何かを)する用意がある」という意味だという。詳しい由来の説明などについては、例えば次のような説明がある。
http://www.hindu.com/edu/2005/06/13/stories/2005061310721702.htm
ちなみに、「人形つかい」の翻訳では、上記の引用は次のようになっていた。
1. 「ぼくは暴力はぜんぜんだめなんだよ。ぼくはイエスマン型なんだ」
2. 「でも、わたしの方は、イエスじゃないわよ……今夜は」
3. 「さようなら。ミス‥バーキスはまだその気になっていないし、仕事もあるのよ」
4. 「わたし、あなたがわたしのためにやってくれたことに、心から感謝したい。それで、あの……ミス‥バーキスは望んでいるのよ、サム。わかってくれる?」
(ロバート・A・ハインライン作「人形つかい」 ハヤカワ文庫)
1と2は、Barkis を避けて「イエスマン」としている。これが適訳かどうかはわからないが、日本語として読んでいて前後の流れに特に違和感はない。
ところが、3と4では「ミス・バーキス」となっている。登場人物ではない名前が突然出てきて、読者はまごつくのではないだろうか。意訳で処理していた表現を、後になって直訳で意味が通らない訳にしたのはなぜなのか、理解に苦しむところである。
Barkis is willing. は検索エンジンのヒット数もそう多くはなく、どれくらい広く使われているのかはよくわからない。ただ、前回の three[eight]-dollar word に比べれば出どころははっきりしている。にもかかわらず辞書に載っていないのも不思議といえば不思議である。
私が気づいたものを、番号をつけて順番に列挙してみよう。
1. "Never any violence with me; I'm more the 'Barkis-is-willing' type."
2. "Well, note it down that Miss Barkis is not willing, at least not this evening."
3. "Hello," she answered, "and now, good-by. Miss Barkis still ain't willin' and I've got work to do."
4. "Sam, no matter what you think of me, I want to tell you that I am deeply grateful for what you did for me. Uh, Miss Barkis is willing, Sam--you understand me?"
(Robert A. Heinlein: The Puppet Masters)
インターネットで調べると、答えは簡単に見つかった。これは、チャールズ・ディケンズの小説「デイヴィッド・コパフィールド」 に出てくる言葉で、「準備ができている」、「(何かを)する用意がある」という意味だという。詳しい由来の説明などについては、例えば次のような説明がある。
http://www.hindu.com/edu/2005/06/13/stories/2005061310721702.htm
ちなみに、「人形つかい」の翻訳では、上記の引用は次のようになっていた。
1. 「ぼくは暴力はぜんぜんだめなんだよ。ぼくはイエスマン型なんだ」
2. 「でも、わたしの方は、イエスじゃないわよ……今夜は」
3. 「さようなら。ミス‥バーキスはまだその気になっていないし、仕事もあるのよ」
4. 「わたし、あなたがわたしのためにやってくれたことに、心から感謝したい。それで、あの……ミス‥バーキスは望んでいるのよ、サム。わかってくれる?」
(ロバート・A・ハインライン作「人形つかい」 ハヤカワ文庫)
1と2は、Barkis を避けて「イエスマン」としている。これが適訳かどうかはわからないが、日本語として読んでいて前後の流れに特に違和感はない。
ところが、3と4では「ミス・バーキス」となっている。登場人物ではない名前が突然出てきて、読者はまごつくのではないだろうか。意訳で処理していた表現を、後になって直訳で意味が通らない訳にしたのはなぜなのか、理解に苦しむところである。
Barkis is willing. は検索エンジンのヒット数もそう多くはなく、どれくらい広く使われているのかはよくわからない。ただ、前回の three[eight]-dollar word に比べれば出どころははっきりしている。にもかかわらず辞書に載っていないのも不思議といえば不思議である。
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アメリカ人の私は小学6年生の時にDavid Copperfieldをはじめて読みましたが、この言葉が間接的なプロポーズになっているのがとても面白かった。こんなプロポーズの仕方があるのか、とまず驚きました。忘れられない言葉となり、上の小説の登場人物のように今も使ったりします。
by Juliet Carpenter (2018-06-24 11:42)
なるほど、間接的なプロポーズの言葉なのですね。貴重な情報ありがとうございました。
by tempus fugit (2018-06-24 12:14)