「私も英語が話せなかった」~通訳者の村松増美氏 逝く [英語学習]
村松増美氏が鬼籍に入られた。若い世代にはご存じない人もいるかと思うが、先日ちょっと触れた國弘正雄氏らと並ぶ日本の会議通訳の草分けの一人だ。私が英語学習に精を出していた頃に大活躍されていた。今年3月に亡くなられていたのだという。
村松増美氏死去=アポロ月面着陸で同時通訳
http://www.asahi.com/obituaries/update/0509/TKY201305090018.html
他にもアポロ11号月面着陸の同時通訳を見出しに取った訃報記事があったが、私にとって「アポロ」の通訳の代名詞といえば以前取り上げたことがある西山千氏であり、村松増美氏の名前はむしろ「サミット」(当時の呼び方は「先進国首脳会議」)での通訳と結びつく。第1回のサミット(1975年)から第9回まで担当された。
著書も何冊か読んだ。通訳や国際会議のウラ話とあわせて、英語のユーモア・ジョークについて書かれたものが多く、その福々しい風貌から受けるイメージにピッタリだった。一般的に英語についての本はどうしても真面目な内容が多いと思うが、村松氏の著作は楽しんで読め、それでいて英語や異文化について理解が深まるというものだった。
最初期の著書に「私も英語が話せなかった」という本がある。最初に広告で目にした時は、凄いタイトルだなと思った。つまり、「今は話せる」という意味であることは当然として、「こう言っても誰も文句はいえまい」という自負が感じられる。さらに、「あなたはどうですか、やはり今は話せませんか?」と読者に問いかけているようでもある。
何と傲岸不遜な、と思って店頭で実際に本を見ると、カバーは満面の笑みをたたえた著者の顔写真。これを見て、何だか気が抜けて、振り上げた拳を下ろさざるを得ない気にさせられてしまった(・・・というのは私のつまらぬフィクションである。「ミスター同時通訳」とまで呼ばれていた村松氏、タイトルも素直に受け取れ、批判めいた失礼な考えなど露ひとつ浮かばなかったのが実際のところだ)。
このタイトルを考えたのが村松氏本人なのか編集者なのかはわからないが、氏の実力と業績、そして人柄があってこそつけられるものだと感じる。
村松氏は帰国子女でないどころか、英語が敵性語だった時代に努力して学習し、ついには「ミスター」と称えられるほどになった。本を読んでそれを知ると、「話せなかった」という言葉も重みを感じさせる。英語のユーモアを楽しもうと力説するが、「お手軽学習」をすすめているわけではまったくない。
ところで、先に「国際会議のウラ話」と書いたが、これはあくまでサイドの話で、国際交渉の席上で出席者が(公表されたこと以外に)実際に何を話したかについては触れていなかったはずだ。手元に本が残っていないので確かめられないが、確か通訳時に取ったメモはすべて廃棄し、通訳した内容は墓場まで持っていくのが通訳者だ、というようなことも書かれていたと記憶する。
交渉事を他人に話すのはご法度というのは当たり前のことのようにも思われるが、こんなことを書くのも、かなり前になるが、通訳をしているという人のブログをたまたま見つけて読んだら、自分が担当した産業通訳の仕事、さらにはクライアントについての悪口めいた記述が書かれていて、大変驚いたことがあるからだ。
さすがに固有名詞は出していなかったが、仮に出席者やクライアントが見つけたら、自分が関係したものだとわかるであろう程度の情報はあった。私が関係者だったら、こんなことを公にする通訳者には二度と仕事は頼まないだろう。
同時に頭に浮かんだのが、村松増美氏の著書で読んだと記憶している通訳者の守秘義務のことだった。外交交渉でも産業通訳でも、この点で差はないはずだ。この本が書かれた頃に比べて、通訳者の裾野は大きく広がっているはずだが、それに伴って職業倫理の意識に欠ける人も出てきているとしたら困ったことだ。
脱線したが、村松氏が設立に参画した老舗通訳エージェント会社のサイトを見たら、氏の死去はごく短く報じているだけで、ちょっと寂しく感じてしまった。「私も英語が話せなかった」も絶版になっている。今手に入る本では、鳥飼玖美子氏の「通訳者と戦後日米外交」が氏へのインタビューを掲載していて、その足跡を知ることができる。
数々の国際交渉を支えた村松増美氏のご冥福をお祈りいたします。
参考記事:
・「人類にとっては偉大な跳躍」~アポロ計画の名文句を集めて
http://eigo-kobako.blog.so-net.ne.jp/2007-07-26
・動詞ではない go
http://eigo-kobako.blog.so-net.ne.jp/2007-07-25
村松増美氏死去=アポロ月面着陸で同時通訳
http://www.asahi.com/obituaries/update/0509/TKY201305090018.html
他にもアポロ11号月面着陸の同時通訳を見出しに取った訃報記事があったが、私にとって「アポロ」の通訳の代名詞といえば以前取り上げたことがある西山千氏であり、村松増美氏の名前はむしろ「サミット」(当時の呼び方は「先進国首脳会議」)での通訳と結びつく。第1回のサミット(1975年)から第9回まで担当された。
著書も何冊か読んだ。通訳や国際会議のウラ話とあわせて、英語のユーモア・ジョークについて書かれたものが多く、その福々しい風貌から受けるイメージにピッタリだった。一般的に英語についての本はどうしても真面目な内容が多いと思うが、村松氏の著作は楽しんで読め、それでいて英語や異文化について理解が深まるというものだった。
最初期の著書に「私も英語が話せなかった」という本がある。最初に広告で目にした時は、凄いタイトルだなと思った。つまり、「今は話せる」という意味であることは当然として、「こう言っても誰も文句はいえまい」という自負が感じられる。さらに、「あなたはどうですか、やはり今は話せませんか?」と読者に問いかけているようでもある。
何と傲岸不遜な、と思って店頭で実際に本を見ると、カバーは満面の笑みをたたえた著者の顔写真。これを見て、何だか気が抜けて、振り上げた拳を下ろさざるを得ない気にさせられてしまった(・・・というのは私のつまらぬフィクションである。「ミスター同時通訳」とまで呼ばれていた村松氏、タイトルも素直に受け取れ、批判めいた失礼な考えなど露ひとつ浮かばなかったのが実際のところだ)。
このタイトルを考えたのが村松氏本人なのか編集者なのかはわからないが、氏の実力と業績、そして人柄があってこそつけられるものだと感じる。
村松氏は帰国子女でないどころか、英語が敵性語だった時代に努力して学習し、ついには「ミスター」と称えられるほどになった。本を読んでそれを知ると、「話せなかった」という言葉も重みを感じさせる。英語のユーモアを楽しもうと力説するが、「お手軽学習」をすすめているわけではまったくない。
ところで、先に「国際会議のウラ話」と書いたが、これはあくまでサイドの話で、国際交渉の席上で出席者が(公表されたこと以外に)実際に何を話したかについては触れていなかったはずだ。手元に本が残っていないので確かめられないが、確か通訳時に取ったメモはすべて廃棄し、通訳した内容は墓場まで持っていくのが通訳者だ、というようなことも書かれていたと記憶する。
交渉事を他人に話すのはご法度というのは当たり前のことのようにも思われるが、こんなことを書くのも、かなり前になるが、通訳をしているという人のブログをたまたま見つけて読んだら、自分が担当した産業通訳の仕事、さらにはクライアントについての悪口めいた記述が書かれていて、大変驚いたことがあるからだ。
さすがに固有名詞は出していなかったが、仮に出席者やクライアントが見つけたら、自分が関係したものだとわかるであろう程度の情報はあった。私が関係者だったら、こんなことを公にする通訳者には二度と仕事は頼まないだろう。
同時に頭に浮かんだのが、村松増美氏の著書で読んだと記憶している通訳者の守秘義務のことだった。外交交渉でも産業通訳でも、この点で差はないはずだ。この本が書かれた頃に比べて、通訳者の裾野は大きく広がっているはずだが、それに伴って職業倫理の意識に欠ける人も出てきているとしたら困ったことだ。
脱線したが、村松氏が設立に参画した老舗通訳エージェント会社のサイトを見たら、氏の死去はごく短く報じているだけで、ちょっと寂しく感じてしまった。「私も英語が話せなかった」も絶版になっている。今手に入る本では、鳥飼玖美子氏の「通訳者と戦後日米外交」が氏へのインタビューを掲載していて、その足跡を知ることができる。
数々の国際交渉を支えた村松増美氏のご冥福をお祈りいたします。
参考記事:
・「人類にとっては偉大な跳躍」~アポロ計画の名文句を集めて
http://eigo-kobako.blog.so-net.ne.jp/2007-07-26
・動詞ではない go
http://eigo-kobako.blog.so-net.ne.jp/2007-07-25
タグ:訃報
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