Panglossian ~楽観的すぎるのも困りもの [固有名詞にちなむ表現]
「楽天家」を表す英語表現を続けよう。今回取り上げる Panglossian は固有名詞に由来する形容詞で、元になった Pangloss は小説の登場人物である。
私の英語学習ファイルには、新型コロナウイルス感染拡大初期のニュース記事で読んだ実例をメモしていた。
- Three days ago, when Donald Trump left for India, the virus was something nasty and far away. Air Force One touched down in Washington tonight in a howling political gale over his administration’s readiness to fight it – despite Trump’s Panglossian prediction that the coronavirus is just “going to go away.”
("What happens when the new coronavirus hits democratic countries" CNN, February 26, 2020)
調べてみると、18世紀フランスの哲学者・文学者ヴォルテール Voltaire が書いた小説「カンディード」に出てくる人物 Pangloss にちなむものであることがわかった。
ヴォルテールといえば、かつて学校の授業で習った、というより名前だけを知ったという程度で、もちろんこの小説も読んだことがないが、Candide という言葉にはピンとくるものがあり、それについては余談として後で触れよう。
Pangloss 博士は作品の主人公カンディードの家庭教師で、「この世のすべては善」と説くが、カンディードはさまざまな不幸や悲惨な状況に直面することになり、最終的にはそうした考えと訣別する。
ヴォルテールは、数万人が犠牲になった1755年のリスボン大地震を契機に、ドイツの哲学者ライプニッツの説く楽天主義を批判するようになり、「カンディード」執筆の背景にもなったという。パングロスは、ライプニッツの楽天主義を象徴するものとなっている。
・・・と、調べているうちに話が難しくなっていったが、というわけで Pangloss は「極端な楽観主義者」を意味するようになった。
ただ同じ「行き過ぎた楽観主義」でも、最近のエントリで取り上げてきた言葉がどこか”ほほえましさ”を感じさせるのに対し、こちらは由来に沿った”苦さ”を伴っているようにも思う。
Panglossian に「誤った楽天思想の」という訳語をつけている辞書もあった。冒頭にあげたCNNの実例がトランプ大統領(当時)の根拠のない無責任な”放言”について使っていたのはまさにぴったりというべきか。
英語圏の辞書から Pangloss と Panglossian の記述を引用しよう。
- a person who views a situation with unwarranted optimism
[C19: after Dr Pangloss, a character in Voltaire's Candide (1759)]
Panglossian adj
(Collins English Dictionary)
- Panglossian, “extremely optimistic, especially in the face of unrelieved hardship or adversity,” comes from Dr. Pangloss (Panglosse in French), an old, incurably optimistic tutor in Voltaire’s philosophical satire Candide.
Kraft sets to work making a case for Panglossian optimism while his marriage crumbles and his money problems worsen.
Burnett had developed a Panglossian confidence in the power of branding.
(Dictionary.com "Word of the Day" March 9, 2021)
- Ludicrously optimistic. Dr Pangloss is the character in Voltaire's satire Candide who embodies Leibniz's view that this is the best of all possible worlds.
(Oxford Dictionary of Philosophy)
「ウェブスター」辞典の説明も長いが引用しよう。「パングロス」はギリシャ語の pan (汎、すべて)と glossa (舌、言葉。cf. glossary) から作られたというのもおもしろい。
- Dr. Pangloss was the pedantic old tutor in Voltaire's satirical novel Candide. Pangloss was an incurable, albeit misguided, optimist who claimed that "all is for the best in this best of all possible worlds." So persistent was he in his optimism that he kept it even after witnessing and experiencing great cruelty and suffering. The name "Pangloss" comes from Greek pan, meaning "all," and glossa, meaning "tongue," suggesting glibness and talkativeness.
(Merriam-Webster.com)
ところでヴォルテールは、かの有名な「私はあなたの意見には反対だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という言葉を吐いた人物だそうだ。
無責任きわまりない言説が横行するようになった現代にヴォルテールが生きていたら、同じことを言うだろうか、とちらっと思ったりもする。
さらに脱線となるが、今回の単語の出典である Candide という語を見た時に私が連想したのは、「ウェスト・サイド・ストーリー」で有名なレナード・バーンスタインの作曲したオペレッタ「キャンディード」(こちらは英語風表記の邦題が一般的)である。
原典がヴォルテールと知った時はちょっと驚いた。名だたる文筆家の著作が大衆的な作品のベースになっているという点で、バーナード・ショーの「ピグマリオン」Pygmalion とミュージカル・映画の「マイ・フェア・レディ」も連想した。
「キャンディード」は「序曲」がよく知られていて(私自身それしか知らず全曲は聞いたことがない)、かつて地上波テレビのクラシック音楽番組「題名のない音楽会」のオープニングテーマとしても使われていた曲である。
テレビのクラシック番組といえば、子供の時、指揮者の山本直純が司会をつとめ、時おり小澤征爾もゲストで出演した「オーケストラがやって来た」を音楽好きの父といっしょによく見ていた。
そちらのテーマ曲は、ヨハン・シュトラウスの「常動曲」Perpetuum mobile(英語でいえば perpetual motion)という作品だったが、どちらも軽快で、クラシックに親しみを持ってもらうのにふさわしい曲といえるだろう。
若かった時イスラエルに出張する機会があり、ホテルの部屋に入って何気なくラジオをつけたら、流れてきたのがこの「キャンディード序曲」だった。バーンスタインはアメリカ国籍だがユダヤ系なので、おもしろい偶然だと思った。
当時はオスロ和平合意が結ばれてしばらくした頃で、中東にようやく平和が訪れるという期待と楽観主義が生まれていた。しかしほどなくして合意は崩壊、和平の試みは水泡に帰した。Pangloss はやはり間違っていたのだ。いま思い返すと遠い昔の夢のような気がする。
「キャンディード」の序曲は、作曲者のバーンスタイン自身が指揮した複数の動画にウェブで触れることができる。
このうち、若き日の彼が司会をつとめていた番組 Young People's Concerts は、「題名のない音楽会」や「オーケストラがやって来た」の元祖・本家といえるもので、この動画でも演奏の前に自作について短い話をしている。
一方、晩年の演奏会形式の全曲動画でも序曲の前の冒頭でバーンスタイン自身が少し話をしているが、こちらはヴォルテールの作品にからめた内容となっている。optimism とか Leibnitz といった言葉も出てくる。
演奏としては、やはり若い時の元気あふれる前者のほうが断然おもしろいと思う。後者は晩年の健康の衰えが演奏にもあらわれている感があるが、冒頭のレクチャーは前者よりずっと英語力が問われるものとなっているので、こちらも紹介しておこう。
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私の英語学習ファイルには、新型コロナウイルス感染拡大初期のニュース記事で読んだ実例をメモしていた。
- Three days ago, when Donald Trump left for India, the virus was something nasty and far away. Air Force One touched down in Washington tonight in a howling political gale over his administration’s readiness to fight it – despite Trump’s Panglossian prediction that the coronavirus is just “going to go away.”
("What happens when the new coronavirus hits democratic countries" CNN, February 26, 2020)
調べてみると、18世紀フランスの哲学者・文学者ヴォルテール Voltaire が書いた小説「カンディード」に出てくる人物 Pangloss にちなむものであることがわかった。
ヴォルテールといえば、かつて学校の授業で習った、というより名前だけを知ったという程度で、もちろんこの小説も読んだことがないが、Candide という言葉にはピンとくるものがあり、それについては余談として後で触れよう。
Pangloss 博士は作品の主人公カンディードの家庭教師で、「この世のすべては善」と説くが、カンディードはさまざまな不幸や悲惨な状況に直面することになり、最終的にはそうした考えと訣別する。
ヴォルテールは、数万人が犠牲になった1755年のリスボン大地震を契機に、ドイツの哲学者ライプニッツの説く楽天主義を批判するようになり、「カンディード」執筆の背景にもなったという。パングロスは、ライプニッツの楽天主義を象徴するものとなっている。
・・・と、調べているうちに話が難しくなっていったが、というわけで Pangloss は「極端な楽観主義者」を意味するようになった。
ただ同じ「行き過ぎた楽観主義」でも、最近のエントリで取り上げてきた言葉がどこか”ほほえましさ”を感じさせるのに対し、こちらは由来に沿った”苦さ”を伴っているようにも思う。
Panglossian に「誤った楽天思想の」という訳語をつけている辞書もあった。冒頭にあげたCNNの実例がトランプ大統領(当時)の根拠のない無責任な”放言”について使っていたのはまさにぴったりというべきか。
英語圏の辞書から Pangloss と Panglossian の記述を引用しよう。
- a person who views a situation with unwarranted optimism
[C19: after Dr Pangloss, a character in Voltaire's Candide (1759)]
Panglossian adj
(Collins English Dictionary)
- Panglossian, “extremely optimistic, especially in the face of unrelieved hardship or adversity,” comes from Dr. Pangloss (Panglosse in French), an old, incurably optimistic tutor in Voltaire’s philosophical satire Candide.
Kraft sets to work making a case for Panglossian optimism while his marriage crumbles and his money problems worsen.
Burnett had developed a Panglossian confidence in the power of branding.
(Dictionary.com "Word of the Day" March 9, 2021)
- Ludicrously optimistic. Dr Pangloss is the character in Voltaire's satire Candide who embodies Leibniz's view that this is the best of all possible worlds.
(Oxford Dictionary of Philosophy)
「ウェブスター」辞典の説明も長いが引用しよう。「パングロス」はギリシャ語の pan (汎、すべて)と glossa (舌、言葉。cf. glossary) から作られたというのもおもしろい。
- Dr. Pangloss was the pedantic old tutor in Voltaire's satirical novel Candide. Pangloss was an incurable, albeit misguided, optimist who claimed that "all is for the best in this best of all possible worlds." So persistent was he in his optimism that he kept it even after witnessing and experiencing great cruelty and suffering. The name "Pangloss" comes from Greek pan, meaning "all," and glossa, meaning "tongue," suggesting glibness and talkativeness.
(Merriam-Webster.com)
ところでヴォルテールは、かの有名な「私はあなたの意見には反対だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という言葉を吐いた人物だそうだ。
無責任きわまりない言説が横行するようになった現代にヴォルテールが生きていたら、同じことを言うだろうか、とちらっと思ったりもする。
さらに脱線となるが、今回の単語の出典である Candide という語を見た時に私が連想したのは、「ウェスト・サイド・ストーリー」で有名なレナード・バーンスタインの作曲したオペレッタ「キャンディード」(こちらは英語風表記の邦題が一般的)である。
原典がヴォルテールと知った時はちょっと驚いた。名だたる文筆家の著作が大衆的な作品のベースになっているという点で、バーナード・ショーの「ピグマリオン」Pygmalion とミュージカル・映画の「マイ・フェア・レディ」も連想した。
「キャンディード」は「序曲」がよく知られていて(私自身それしか知らず全曲は聞いたことがない)、かつて地上波テレビのクラシック音楽番組「題名のない音楽会」のオープニングテーマとしても使われていた曲である。
テレビのクラシック番組といえば、子供の時、指揮者の山本直純が司会をつとめ、時おり小澤征爾もゲストで出演した「オーケストラがやって来た」を音楽好きの父といっしょによく見ていた。
そちらのテーマ曲は、ヨハン・シュトラウスの「常動曲」Perpetuum mobile(英語でいえば perpetual motion)という作品だったが、どちらも軽快で、クラシックに親しみを持ってもらうのにふさわしい曲といえるだろう。
若かった時イスラエルに出張する機会があり、ホテルの部屋に入って何気なくラジオをつけたら、流れてきたのがこの「キャンディード序曲」だった。バーンスタインはアメリカ国籍だがユダヤ系なので、おもしろい偶然だと思った。
当時はオスロ和平合意が結ばれてしばらくした頃で、中東にようやく平和が訪れるという期待と楽観主義が生まれていた。しかしほどなくして合意は崩壊、和平の試みは水泡に帰した。Pangloss はやはり間違っていたのだ。いま思い返すと遠い昔の夢のような気がする。
「キャンディード」の序曲は、作曲者のバーンスタイン自身が指揮した複数の動画にウェブで触れることができる。
このうち、若き日の彼が司会をつとめていた番組 Young People's Concerts は、「題名のない音楽会」や「オーケストラがやって来た」の元祖・本家といえるもので、この動画でも演奏の前に自作について短い話をしている。
一方、晩年の演奏会形式の全曲動画でも序曲の前の冒頭でバーンスタイン自身が少し話をしているが、こちらはヴォルテールの作品にからめた内容となっている。optimism とか Leibnitz といった言葉も出てくる。
演奏としては、やはり若い時の元気あふれる前者のほうが断然おもしろいと思う。後者は晩年の健康の衰えが演奏にもあらわれている感があるが、冒頭のレクチャーは前者よりずっと英語力が問われるものとなっているので、こちらも紹介しておこう。
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バーンスタイン:「キャンディード」序曲&ウェスト・サイド・ストーリー~シンフォニック・ダンス 他(期間生産限定盤)
- アーティスト: レナード・バーンスタイン
- 出版社/メーカー: SMJ
- 発売日: 2018/08/22
- メディア: CD
タグ:クラシック
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バーンスタインのYouTubeでの解説は勉強になりますね。老教授のレクチャーなどと言っていますが、大変聞きごたえがあります。自ら作曲したものなので、原作への思い入れがあるのですね。Panglossian, Voltaire, Candide, Bernsteinとものすごい広がりと深淵さに打ちのめされたような気がします。
by TM (2024-08-15 16:22)
バーンスタインについてはこのブログでも何度か触れていますが、そのひとつ、「ベルリンの壁崩壊記念」のベートーヴェンの第9はイロモノ公演扱いされているようですが、以前下記のエントリで書いたように、歴史的名演奏といえると思っています。
https://eigo-kobako.blog.ss-blog.jp/2008-09-22
彼の最後となった来日公演の時は、確か受け付けの開始時刻と同時に電話をかけたものの全くつながらず、「やっぱりダメか」と残念に思ったものでした。その後ほどなくして彼の死去が報じられ、衝撃を受けました。
またマーラーの多くの作品もバーンスタインの録音で知るようになりましたが、いずれも彼の個性を打ち出した非一般的な演奏であることを後に知り、フルトヴェングラーのベートーヴェン同様、その呪縛を振り切るのに時間がかかったものでした。
トシを取ってマーラーそのものを聞くのがしんどくなってきた昨今、バーンスタインは自分の若い頃と重なって懐かしく思い出します。
以上、Candide とは直接関係ない内容を連ねてしまいました。
by tempus_fugit (2024-08-16 00:55)