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鈴木雅明の「ミサ曲ロ短調」 [ジャズ・クラシック]

J.S. バッハ:ミサ曲 ロ短調 BWV232 [Hybrid SACD]  (J.S. Bach - Mass in B minor )

J.S. バッハ:ミサ曲 ロ短調 BWV232 [Hybrid SACD] (J.S. Bach - Mass in B minor )

  • アーティスト: キャロリン・サンプソン,レイチェル・ニコルズ(Sop),ロビン・ブレイズ(A),ゲルト・テュルク(Ten),ペーター・コーイ(Bs),J. S. バッハ,鈴木雅明,バッハ・コレギウム・ジャパン
  • 出版社/メーカー: BIS
  • 発売日: 2007/10/29
  • メディア: CD


音楽の専門知識がなく、キリスト教徒でもない私だが、バッハの「ミサ曲ロ短調」は、私の「無人島の一枚」の有力候補である。芸術が持つ力を感じずにはいられない、すばらしい作品だ。鈴木雅明率いるバッハ・コレギウム・ジャパンの新録音が出たので聴いてみた。

バッハ・コレギウム・ジャパン(以下BCJ)は海外でも高い評価を受けている団体だ。私もコンサートを聴いたことがあるが、少人数での演奏にふさわしくない大ホールだったうえ席も後ろで、音が十分に伝わってこなかった。彼らの録音は本拠地である神戸の教会で毎回行われていて、その響きを場所のハンディなく味わえる。

今回の録音だが、私がこれまで聴いた演奏のうちで最上ともいえるものだった。

古典派以前の音楽は、作曲当時の楽器 (period instruments) と奏法で演奏するのが主流になっていて、BCJもそうだ。こうした古楽器演奏 (historically-informed performance) の中には、テンポが従来のものより相当速いものがある。

それによって、従来のロマン主義的な解釈が剥ぎ取られ、目の覚めるような効果をあげているものもあるが、この「ミサ曲ロ短調」は、あまり急かされると味わいに欠けると個人的には思う。その点、鈴木氏は、じっくりと、しかし厚化粧には陥らずにこの作品を聴かせてくれた。

その特徴は、第1曲の「主よ、あわれみたまえ」 Kyrie eleison から感じ取れるように思う。古楽器演奏の中には、冒頭の "Kyrie" という言葉を軽く優しく始めているものもあるが、BCJは、力みを感じさせない力強さ、といった感じで決然と始める。その一方で、あとの部分では木管楽器の細やかさも印象的だ。

ソプラノ二重唱が美しい第2曲「キリストよ、あわれみたまえ」 Christe eleison は、ソリスト(英語では soloist)の声が俗っぽい感じだとオペラのようで興ざめだが、今回の2人(いずれも外国人)は清潔感と節度があって、こうした曲にふさわしい。ソプラノ独唱による第6曲「われら汝をほめ」 Laudamus te も同様である。

この調子で全曲を書くときりがないので、残念だったことをひとつあげると、全曲を通して通奏低音にチェンバロを使っていることだった。チェンバロそのものは嫌いではないが、この作品で常に金属的な音が鳴っているのは興をそがれる。あくまで私の好みだが、オルガンだけの方がいい。鈴木氏がこの選択をしたのはやはり残念に思う。

しかし、そういったささいな不満も、終曲である第27曲「われらに平安を与えたまえ」 Dona nobis pacem を聞く頃には消えてしまった。この第27曲の旋律は、第7曲の「主に感謝したてまつる」 Gratias agimus tibi と同じだが、これまで私が聞いたCDや実演では、終曲をゆっくり演奏するなど、2つを差別化しているものがある。BCJもそうしているが、その違いはテンポだけにとどまらず、終曲は(うまく表現できないが)さらに深みを感じさせる。そしてここでは、チェンバロはごくかすかにしか鳴っていない。

第7曲と同じ音楽に歌詞をのせることで、バッハは、心の平安をもたらしてくれたことに対する神への感謝を表した、という説を読んだことがある。この「ミサ曲ロ短調」は、バッハに至る音楽様式を集大成した形になっているそうで、彼の絶筆となった。人生の終わりを予期したバッハが、そうした大作を完成させてくれた創造主に対する感謝の意を終曲にこめた、ということなのだろう。

鈴木雅明氏が、今回の録音にあたって、この終曲、そして作品全体をどのように解釈し、どのような思いで演奏したのかを知りたいところである。残念ながら、今回購入した国内盤のブックレットは、海外盤の解説の翻訳だけで、鈴木氏の文章といった独自の編集はされていない。

BCJの録音は、これまで演奏会とあわせる形で行われてきたが、この「ロ短調」は、録音だけのセッションを特別に組んだそうだ。鈴木氏としても何か期するものがあったに違いないのだが。

それでもひとつ気づいたことがある。この作品の歌詞対訳は、ミサの定訳をそのまま載せているものが多いが、今回は鈴木氏本人が翻訳を行っている。といっても鈴木氏の訳も事実上従来の訳に則っているのだが、少なくともひとつ違いがあった。

それは先に書いたように、終曲の pacem を「平安」としていることである。これまでは「平和」とされてきた。私はラテン語はわからないが、この語に由来する英語の peace は、英英辞典を読めばわかるように、確かに内的な平和、平安という意味がある。鈴木氏がなぜこの訳語を選んだのか、終曲の解釈とあわせて、ぜひ書いてほしかった。

プロテスタントの鈴木氏は、信仰がなければバッハを理解することはできない、と述べているのを読んだことがある。キリスト教徒でない私は、信仰を持つ人と同じようにこの作品を受けとめているわけではないことになる。それでもその音楽は、宗教的にも文化的にもつながりのない日本人の心にも訴えかけるものを確かに持っている。

厳格なプロテスタントでありながら、バッハは晩年になって、カトリックの様式に則ったミサ曲を書いた。ある意味で、彼は枠にとらわれない考えを持っていたわけである。またその音楽はキリスト教内の宗派だけではなく、宗教や文化の枠をも超える力を秘めている。そして鈴木氏も、バッハの理解について厳しい見方を持っていながら、そうした枠を超えさせる力を作品に与えるような演奏を成しとげた、といえるのではないだろうか

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コメント 2

Nora

 こんにちは。トラックバック、ありがとうございます。
 鈴木さんの終曲の訳文の話、興味深く拝読いたしました。(わたしのは、輸入盤なのです)
 記事でふれていらっしゃる終曲に関する説は、小林義武先生の説だったと思いますが、小林先生と鈴木さんはもちろん親しい間柄ですので、鈴木さんの解釈も、もちろんそれを踏まえてのものだと思います。
 正に、感謝の音楽にふさわしい、すばらしい演奏ですね!
by Nora (2007-12-23 20:04) 

子守男

Nora さんのコメントのおかげで、鈴木雅明氏の訳の背景がわかったように思います。どうもありがとうございました。
by 子守男 (2007-12-24 01:43) 

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