brownstone は単なる「茶褐色の石」か? [英語文化のトリビア]
一見何でもない単語と捉えたつもりでも、非ネイティブには気づかない背景が隠れていることがある。少し前から、アイザック・アシモフ作の短編推理小説集「黒後家蜘蛛の会」の原書をすき間時間に再読しており、ここでも何度か取り上げているが、そんな例といえそうな単語があったので、少し書いてみたい。
シリーズ第3巻に収められている邦題「よくよく見れば」という作品に出てきた brownstone という単語である。
- "... If he didn't want to be associated with the floor, why didn't he just walk down several flights and calmly wait for the elevator on another floor?"
Rubin said sardonically, "The trouble with you, Mario, is that you live in a brownstone. Anyone involved in a high-rise never uses the stairs...."
("None So Blind" in "Casebook of the Black Widowers" by Isaac Asimov)
この部分だけでは何のことやらわからないので補足すると、ニューヨークの高層アパートで起きた殺人事件で、現場にいた人の証言から、犯人(ここでの he)が犯行現場と同じ階からエレベーターを使って逃走したと考えられることについて、なぜそのようなリスクの高い行動を取ったのかと「黒後家蜘蛛の会」のメンバーたちが推理を交わしている場面である。
「犯人は階段を使って別の階に降りて、そこからエレベーターに乗ればいいだけなのに、どうしてそうしなかったのか?」「そんな的外れを言うのは、きみが a brownstone に住んでいるからだ。高層アパートを利用している人で階段を使う人などいやしないよ」というようなやりとりだと考えればよさそうだ。
そしてくだんの単語だが、brown + stone から「茶色の石が使われた建物」というような意味だろうと想像がつくのではないか。そしてそれ以上の穿鑿はせずに読み進めることが多いのではと思う。
それで大きな差し支えがあるわけでもないが、brownstone に次のような文化的背景があることを知っていると、このやりとりがより生き生きと感じられるのではないだろうか。
- 1. (建築) 赤褐色砂岩、正面にブラウンストーンを使用した住居
2. = brownstone front 赤色砂岩を玄関正面に張った家(New York市に見られる;富裕・魅力の象徴)
(ジーニアス英和大辞典)
ニューヨークというと、私などはまず摩天楼をイメージしてしまうが、その一方で、回数は少ないながらその街中を歩いた過去の記憶からも、brownstone も確かにこの都市の特徴のひとつであることに思い至る。
そしてアシモフの小説だが、brownstone の家に住んでいる Mario には、コンクリートなどの新しい建材で作られた高層アパートでは階段を使う人などいないことに想像が及ばないのだ、と Rubin は言っているわけである。なお Mario というメンバーは、画家で洒落者という設定で、無機質な現代風のマンションではなく brownstone の建物を住居に選んだのであろう。
この部分、翻訳ではどうなっているのかと思って見てみると、
- 「そりゃあきみ、全然おかしいじゃないか。廊下で人に顔を見られたくないなら、いくつか階段を降りて、それからそしらぬ顔でエレベーターに乗りゃあいいんだ」
ルービンは言った。「きみは古いブラウンストーンのアパートに住んでいるからな、マリオ。だからそんなのんきなことを考えるんだ。高層アパートの住人は間違っても階段は使わないんだよ」
(「黒後家蜘蛛の会3」創元推理文庫)
「そしらぬ顔で」とか「間違っても…使わない」など、さすがプロはうまいなと思うが、brownstone については、原文には「古い」を示す直接の言葉はないので、補足としてつけたのだろう。
ただ人によっては、現代的な高層アパートとの対比で、「古い」を単なる「ボロい」の意味に受け取ってしまうかもしれない。といっても詳しい補足説明をつけるほどでもないだろうから、難しいものである。
この brownstone は、よく知られた小説の冒頭に出てくる。オードリー・ヘップバーンの主演で映画化された、トルーマン・カポーティの「ティファニーで朝食を」がそれであり、私が最初にこの単語に出会ったのもこの作品だった。
- I am always drawn back to places where I have lived, the houses and their neighborhoods. For instance, there is a brownstone in the East Seventies where, during the early years of the war, I had my first New York apartment. It was one room crowded with attic furniture, a sofa and fat chairs upholstered in that itchy, particular red velvet that one associates with hot days on a train.
(Breakfast at Tiffany's by Truman Capote)
この brownstone の部分はどう訳されているか、いま手に入る翻訳(訳者は村上春樹)を図書館でのぞいたら、こうなっていた。
- たとえばニューヨークに出てきて最初に僕が住んだのは、イーストサイド七十二丁目あたりにあるおなじみのブラウンストーンの建物だった。
(「ティファニーで朝食を」新潮社)
こちらも原文に直接の単語はない「おなじみの」をつけて補っている。ニューヨーク市によく見られる建築ということで、こうしたのだろう。
「古い」とするより実態に即したものといえるかもしれないし、一方で、ニューヨークの街にそれこそなじみがない人には、何が「おなじみ」なのだろうか、と感じられるかもしれない(それよりも私は、原文の Seventies を「七十二丁目あたり」としていることの方がむしろ気になったのだが)。
長々と書いてしまったが、brownstone (front) がどのようなものか「おなじみ」ではない人は、Seeing is believing. ということで、この単語をインターネットで画像検索していただくのが手っ取り早いと思う。
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シリーズ第3巻に収められている邦題「よくよく見れば」という作品に出てきた brownstone という単語である。
- "... If he didn't want to be associated with the floor, why didn't he just walk down several flights and calmly wait for the elevator on another floor?"
Rubin said sardonically, "The trouble with you, Mario, is that you live in a brownstone. Anyone involved in a high-rise never uses the stairs...."
("None So Blind" in "Casebook of the Black Widowers" by Isaac Asimov)
この部分だけでは何のことやらわからないので補足すると、ニューヨークの高層アパートで起きた殺人事件で、現場にいた人の証言から、犯人(ここでの he)が犯行現場と同じ階からエレベーターを使って逃走したと考えられることについて、なぜそのようなリスクの高い行動を取ったのかと「黒後家蜘蛛の会」のメンバーたちが推理を交わしている場面である。
「犯人は階段を使って別の階に降りて、そこからエレベーターに乗ればいいだけなのに、どうしてそうしなかったのか?」「そんな的外れを言うのは、きみが a brownstone に住んでいるからだ。高層アパートを利用している人で階段を使う人などいやしないよ」というようなやりとりだと考えればよさそうだ。
そしてくだんの単語だが、brown + stone から「茶色の石が使われた建物」というような意味だろうと想像がつくのではないか。そしてそれ以上の穿鑿はせずに読み進めることが多いのではと思う。
それで大きな差し支えがあるわけでもないが、brownstone に次のような文化的背景があることを知っていると、このやりとりがより生き生きと感じられるのではないだろうか。
- 1. (建築) 赤褐色砂岩、正面にブラウンストーンを使用した住居
2. = brownstone front 赤色砂岩を玄関正面に張った家(New York市に見られる;富裕・魅力の象徴)
(ジーニアス英和大辞典)
ニューヨークというと、私などはまず摩天楼をイメージしてしまうが、その一方で、回数は少ないながらその街中を歩いた過去の記憶からも、brownstone も確かにこの都市の特徴のひとつであることに思い至る。
そしてアシモフの小説だが、brownstone の家に住んでいる Mario には、コンクリートなどの新しい建材で作られた高層アパートでは階段を使う人などいないことに想像が及ばないのだ、と Rubin は言っているわけである。なお Mario というメンバーは、画家で洒落者という設定で、無機質な現代風のマンションではなく brownstone の建物を住居に選んだのであろう。
この部分、翻訳ではどうなっているのかと思って見てみると、
- 「そりゃあきみ、全然おかしいじゃないか。廊下で人に顔を見られたくないなら、いくつか階段を降りて、それからそしらぬ顔でエレベーターに乗りゃあいいんだ」
ルービンは言った。「きみは古いブラウンストーンのアパートに住んでいるからな、マリオ。だからそんなのんきなことを考えるんだ。高層アパートの住人は間違っても階段は使わないんだよ」
(「黒後家蜘蛛の会3」創元推理文庫)
「そしらぬ顔で」とか「間違っても…使わない」など、さすがプロはうまいなと思うが、brownstone については、原文には「古い」を示す直接の言葉はないので、補足としてつけたのだろう。
ただ人によっては、現代的な高層アパートとの対比で、「古い」を単なる「ボロい」の意味に受け取ってしまうかもしれない。といっても詳しい補足説明をつけるほどでもないだろうから、難しいものである。
この brownstone は、よく知られた小説の冒頭に出てくる。オードリー・ヘップバーンの主演で映画化された、トルーマン・カポーティの「ティファニーで朝食を」がそれであり、私が最初にこの単語に出会ったのもこの作品だった。
- I am always drawn back to places where I have lived, the houses and their neighborhoods. For instance, there is a brownstone in the East Seventies where, during the early years of the war, I had my first New York apartment. It was one room crowded with attic furniture, a sofa and fat chairs upholstered in that itchy, particular red velvet that one associates with hot days on a train.
(Breakfast at Tiffany's by Truman Capote)
この brownstone の部分はどう訳されているか、いま手に入る翻訳(訳者は村上春樹)を図書館でのぞいたら、こうなっていた。
- たとえばニューヨークに出てきて最初に僕が住んだのは、イーストサイド七十二丁目あたりにあるおなじみのブラウンストーンの建物だった。
(「ティファニーで朝食を」新潮社)
こちらも原文に直接の単語はない「おなじみの」をつけて補っている。ニューヨーク市によく見られる建築ということで、こうしたのだろう。
「古い」とするより実態に即したものといえるかもしれないし、一方で、ニューヨークの街にそれこそなじみがない人には、何が「おなじみ」なのだろうか、と感じられるかもしれない(それよりも私は、原文の Seventies を「七十二丁目あたり」としていることの方がむしろ気になったのだが)。
長々と書いてしまったが、brownstone (front) がどのようなものか「おなじみ」ではない人は、Seeing is believing. ということで、この単語をインターネットで画像検索していただくのが手っ取り早いと思う。
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- 作者: Capote, Truman
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- 発売日: 2012/05/15
- メディア: Kindle版
タグ:アイザック・アシモフ
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マンハッタンのbrownstoneは独特な雰囲気があります。低層アパートですが、落ち着いた高級感がある住宅街の趣です(事実そうですが)。ボストンにも旧市街にはbrownstoneがありますが、建物の雰囲気はイギリス風です。アシモフの短編はNYの風物も伝えてくれるものなのですね。カポーティも少しだけ短編を読んだのみですが、読み直してみたくなります。解説いただいて感謝です。
by TM (2023-11-14 10:09)
TMさん、ボストンを含めての brownstone の情報ありがとうございました。
アシモフの「黒後家蜘蛛の会」はニューヨークのレストランで行われる月1回の仲間うちの例会が舞台で、会話中心の”安楽椅子探偵”ものなので、ニューヨークの風物はあまり描写されていませんが、私にとっては独特の楽しみを与えてくれる作品です。
by tempus_fugit (2023-11-16 00:41)