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「不思議の国のアリス」の Antipathies をどう訳すか [翻訳・誤訳]

今回も「不思議の国のアリス」について。子どもの頃この作品を読んでいて、よくわからない箇所があった。昔のことなのでとうに忘れていたが、前回取り上げた別宮貞徳氏の「アリス」の解説本にその部分が取り上げられていたので思い出すとともに、「そういうことだったのか」と合点がいった次第である。

物語のはじめの場面、ウサギを追って穴に飛び込んだアリスは、どんどん落下しているときに、「このまま地球の反対側に突き抜けて、頭を下にして歩いている人たちの真ん中に飛び出したらおかしいだろうなあ」と考える。そして、そういう人たちは何というんだったっけ、確か Antipathies だった、と独白する。

別宮氏の解説本によれば、本当は antipodes という単語が正しいのだが、アリスはうろおぼえで、なんとなく響きが似た、しかし意味はまったく違う antipathies (反感)と言ってしまった、ということである。そして、昔の私が引っかかったのは、この言葉遊びがよくわからなかった、つまりうまく訳されていなかったかららしい、ということに気づいた(具体的にどう訳されていたのかはもちろん記憶にない)。

antipodes の発音は /-di:z/ となる(ニュージーランド領の the Antipodes は日本語では「アンティボディーズ諸島」と表記されている)。ついでだが antipode 「正反対の事物、場所」という単語は、antipodes から -s が落ちた逆成 back-formation だと辞書に説明があり、antipode に -s がついて antipodes ができたのではない。

さて、ではこの部分はどう訳せばいいのだろうか。antipodes は「対蹠地」、読みは「たいせき(ち)」あるいは「たいしょ(ち)」なので、それに音の似ている言葉をあてればよさそうだ。解説本の中で別宮氏は、過去の翻訳にみられる「対照人」「対情地」「対情地人」「大将人」といった訳語をあげたうえで、

しかし、こんなありもしない言葉にまちがえるのは、それこそありもしないことと思われます。「タイセキチ」という音に似ていることだけがポイントですから、たとえば「タイショクキン」(退職金)でもかまわないどころか、その方がおもしろいのではないでしょうか。
(「不思議の国のアリス」を英語で読む ちくま文庫)

と書いている。

ここを読んで、「え?」と思ってしまった。失礼ながら、「タイショクキン」、そんなにおもしろいでしょうか。翻訳の権威の別宮氏に私がもの申すことなどできないが、なんだか気が抜けてしまったというのが正直なところだ。

antipodes がネイティブスピーカーにとって日常的な単語なのかはよくわからないが、「対蹠(地)」という言葉を普通に使う日本人がどれくらいいるだろうか、と思う。ふつうは「地球の裏側」「反対側」とでもいうのではないか。

ではお前はどう訳すのか、といわれれば素人の私にはお手上げである。そこで、というわけではないが、週末にいくつかの書店や古本屋を回って、「アリス」の翻訳がここをどう訳しているかをのぞいてメモしてみた。

有名な作品とあって翻訳の数も多い。目にした範囲では、次のような訳語があった。

「アンティパシーズ(反感)」
「ダイスキケチ」
「ツイセキチュウ」
「対岸地」
「退席地」
「反対人」
「対テキ人」
「大将人」
「対庶民」
「ハンタイ民族」

いろいろあって、どれも苦心のあとがうかがえる(しかし、そのままカタカナにしてカッコで説明を補った「アンティパシーズ(反感)」は、翻訳としては落第ではないだろうか)。中には、別宮氏の解説のような内容の「注」を欄外につけているものもあるし、「ほんとうは対蹠人といいます」といった、原文にない文をこしらえて付け加えている翻訳もある。

そうした工夫をしなければわかってもらえないということが、「対蹠(地)」という言葉があまり知られていないことを裏書きしているのではないかと感じる。少なくとも、アリスと同じ年齢の日本人の女の子がみな知っていて使うようなものではないだろう(「不思議の国のアリス」は実は児童向けではなく大人のための作品である、という見方もあるようだが、それでも主人公のアリスが子どもであることに変わりはない)。

だとすれば、音の類似ではなく、意味が通じることに重きを置いた「対岸人」とか「対照人」(むしろ「対称」か)などの方が、ふつうの読者にとってはわかりやすいのではないか、と思う。また、「反対人」や「ハンタイ民族」は、物理的な「反対」だけではなく、アリスがまちがえて使った antipathies の意味もくんで考えだしたものかもしれない。しかし多くの翻訳家の方々は、やはり「たいせき(たいしょ)」の音にこだわってみたいのだろうなあ。難しいものである。

ついでだが、イギリスではオーストラリアやニュージーランドを the Antipodes と呼ぶと辞書にある。アリスのような子どもでも antipodes という単語を知っている(つもりだった)のは、地球の反対側に大きくて名も知られた豪州があるという、イギリスならではの事情があるのではないだろうか。その点でも、日本人の子どもにとっての「対蹠地」という言葉とは比較にならないのではないか、と考えたくなる。

ついでに思ったのだが、アメリカ人にとっての the Antipodes はあるのだろうか。そしてオーストラリア人は?

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コメント 4

バネ

仰る通りで、「タイショクキン」がおもしろいと感じるのは別宮さんのように難しい言葉の対蹠地を知っている人だけでしょうね。
ただ、antipathiesを「反感」と訳すのは翻訳者としては失格の点ですが、私は「地球の反感」と訳すのは悪くはないのではと思います。 何故なら、「地球の反対」(antipodes)は誰でも知っていますし、「地球の反感」は「地球の反対」を連想し、antipathiesにも近く、しかしやはり通常は使わない変な日本語だが分かりやすい気がします。
いずれにせよ、翻訳は厄介ですね。翻訳者を目指さなくて良かった。
by バネ (2010-05-17 09:40) 

子守男

なるほど、「地球の反感」もそれほどおかしくはありませんね。
ただ、この翻訳は「反感」ではなく、カタカナで「アンティバシーズ」と表記し、カッコで(反感)と添えてあったので、私としては「いくらなんでも・・・」と思った次第です。
by 子守男 (2010-05-17 10:24) 

たんご屋

ベック先生はあいかわらず誤訳を斬っていらっしゃるんですね。
先日「英語ものしり倶楽部」というラジオ番組に村上由香さんという作家さんがゲストで出演なさっていて、「アリス」を翻訳したときの苦労を語っていらっしゃいました。そういうことば遊びみたいな部分の翻訳のむずかしさも実例を挙げて説明なさっていて、とても興味深いお話でした。
そういった部分はもう訳者さんの感性が表現されたものであって、正しいとか間違いとかいう話ではないんだろうな、という気がします。
by たんご屋 (2010-05-19 07:31) 

子守男

たぶん「村山由佳」さんのことだと思いますが、店頭で見比べたうちのひとつで、本文にあげた「ダイスキケチ」はこの訳にあったものです。この部分はちょっと「?」と思いましたが、ぱらぱら見た限りでは全般的に読みやすい訳という印象を受けました。原作のテニエルのイラストではなく、「ムーミン」の作者トーベ・ヤンソンが画を描いていたはずです。

by 子守男 (2010-05-21 00:03) 

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