spark joy 「ときめき」 ("片づけコンサルタント"近藤麻理恵さんが英単語に・その2) [和英表現]
前回は、近藤麻理恵さんの名前が Kondo という動詞として英語で使われるようになっていることについて書いたが、英文を読んでいて同じように目に留まったのが spark joy という表現だ。"こんまり"流片づけ術のキーワードである「ときめく」の英訳である。
関連するどの英文にもこの形で出ているので、近藤さんの著書「人生がときめく片づけの魔法」の英語版 The Life-Changing Magic of Tidying Up: The Japanese Art of Decluttering and Organizing がこの表現を使っているのだろうと想像する。
前回引用した The Wall Street Journal 紙にも出てきた。近藤さんがアメリカを訪れて"現地指導" したくだりで使われている。
- At the author’s direction, the girl must pull them all out, pick up each item and pose Ms. Kondo’s signature question: Does it tokimeku--does it spark joy?
("Marie Kondo and the Cult of Tidying Up"
http://www.wsj.com/articles/marie-kondo-and-the-tidying-up-trend-1424970535 )
spark joy が「ときめく」の汎用的な英訳といえるかどうかは私には判断できないが、うまいものだなと思った。私の持っている和英辞典で「ときめき」や「ときめく」を引いてもこの表現は載っていない。他の難しそうな単語やカッコいいイディオム風の表現なら出ているが、例えばそのひとつ pulsate (pulse に関係がある単語)をドヤ顔で使ったところで、シンプルな spark joy にはかなわないだろう。
同じようにいくつかの英文で目についた言葉をもうひとつ、上記「ウォール・ストリート・ジャーナル」紙の記事には、
- She (Kondo) has felt self-conscious about her posture. A home-organizing guru, she has decided, should “be proper all the time.”
というくだりがあるが、近藤さんについて the tidying-up guru, tidiness guru, cleanup guru, decluttering guru などと、他にも guru を使っている英文がネットで見つかる。
オウム真理教の事件で「グル」として日本語でも使われるようになった言葉だが(発音は「グールー」のようにした方が英語に近い)、サンスクリット語由来で「指導者」「専門家」「プロ」といった意味である。ついでに czar, tzar という語も連想した(→「皇帝」ではない czar)
さらについでに、ここにある decide は「決める」というより、「考える、思う」くらいの意味で、英文を読んでいるとけっこう目にする。
近藤さんは、「タイム」誌の「世界で最も影響力のある100人」 "The 100 Most Influential People" に、日本人では村上春樹氏とともに選ばれたことも先日広く報じられていた。TIME の記事は下記で読める。
http://time.com/3822899/marie-kondo-2015-time-100/
ところで、近藤さんについての英文記事を読んでいて考えたことがある。
「片づけ」といえば、私には「断捨離」が頭に浮かぶが、こちらは英語の本にはなっていないはずだと思う。もし英語版「断捨離」がアメリカで出版されていたら、どうなっただろうか。
もしかしたら今ごろ、danshari という言葉をあちこちで見るようになっていたかもしれない(もちろんそうならなかったかもしれない)。「こんまり」式は(文字通り“KonMari method”としている英文もあった)、"spark joy" という独特のウリがあるからこそ、外国でも話題になったのかもしれない(もちろんそうではないかもしれない)。
そのへんは仮定や想像なので確たることはいえないが、しかしいずれにせよ、英語版が出なければ、近藤さんが「世界で最も影響力のある100人」に選ばれることもなかったのではないか、とは思う。
同じことが村上春樹氏にも当てはまるだろう。村上氏の作品は、非日本人も受け入れやすいストーリーであるとか、もとの文体が英語的なスタイルで書かれているとか、国境を超えた人気についていろいろ分析されているようだ。だがこちらも、英語をはじめとする外国語に翻訳されなければ、ここまで海外で評判になることはなかっただろう。
結局、ごく一部の日本ファンや日本語がわかる人を除けば、まず事実上の国際語である英語にならなければ、海外の広い範囲で知られることはありえない。こうしたことはノーベル賞の選定についても以前から指摘されていることだが、今回あらためて、良し悪しは別として、英語の影響力あるいは支配力の強さに気づかされた。
過去の参考記事:
・村上春樹の「総称のyou」論
関連するどの英文にもこの形で出ているので、近藤さんの著書「人生がときめく片づけの魔法」の英語版 The Life-Changing Magic of Tidying Up: The Japanese Art of Decluttering and Organizing がこの表現を使っているのだろうと想像する。
前回引用した The Wall Street Journal 紙にも出てきた。近藤さんがアメリカを訪れて"現地指導" したくだりで使われている。
- At the author’s direction, the girl must pull them all out, pick up each item and pose Ms. Kondo’s signature question: Does it tokimeku--does it spark joy?
("Marie Kondo and the Cult of Tidying Up"
http://www.wsj.com/articles/marie-kondo-and-the-tidying-up-trend-1424970535 )
spark joy が「ときめく」の汎用的な英訳といえるかどうかは私には判断できないが、うまいものだなと思った。私の持っている和英辞典で「ときめき」や「ときめく」を引いてもこの表現は載っていない。他の難しそうな単語やカッコいいイディオム風の表現なら出ているが、例えばそのひとつ pulsate (pulse に関係がある単語)をドヤ顔で使ったところで、シンプルな spark joy にはかなわないだろう。
同じようにいくつかの英文で目についた言葉をもうひとつ、上記「ウォール・ストリート・ジャーナル」紙の記事には、
- She (Kondo) has felt self-conscious about her posture. A home-organizing guru, she has decided, should “be proper all the time.”
というくだりがあるが、近藤さんについて the tidying-up guru, tidiness guru, cleanup guru, decluttering guru などと、他にも guru を使っている英文がネットで見つかる。
オウム真理教の事件で「グル」として日本語でも使われるようになった言葉だが(発音は「グールー」のようにした方が英語に近い)、サンスクリット語由来で「指導者」「専門家」「プロ」といった意味である。ついでに czar, tzar という語も連想した(→「皇帝」ではない czar)
さらについでに、ここにある decide は「決める」というより、「考える、思う」くらいの意味で、英文を読んでいるとけっこう目にする。
近藤さんは、「タイム」誌の「世界で最も影響力のある100人」 "The 100 Most Influential People" に、日本人では村上春樹氏とともに選ばれたことも先日広く報じられていた。TIME の記事は下記で読める。
http://time.com/3822899/marie-kondo-2015-time-100/
ところで、近藤さんについての英文記事を読んでいて考えたことがある。
「片づけ」といえば、私には「断捨離」が頭に浮かぶが、こちらは英語の本にはなっていないはずだと思う。もし英語版「断捨離」がアメリカで出版されていたら、どうなっただろうか。
もしかしたら今ごろ、danshari という言葉をあちこちで見るようになっていたかもしれない(もちろんそうならなかったかもしれない)。「こんまり」式は(文字通り“KonMari method”としている英文もあった)、"spark joy" という独特のウリがあるからこそ、外国でも話題になったのかもしれない(もちろんそうではないかもしれない)。
そのへんは仮定や想像なので確たることはいえないが、しかしいずれにせよ、英語版が出なければ、近藤さんが「世界で最も影響力のある100人」に選ばれることもなかったのではないか、とは思う。
同じことが村上春樹氏にも当てはまるだろう。村上氏の作品は、非日本人も受け入れやすいストーリーであるとか、もとの文体が英語的なスタイルで書かれているとか、国境を超えた人気についていろいろ分析されているようだ。だがこちらも、英語をはじめとする外国語に翻訳されなければ、ここまで海外で評判になることはなかっただろう。
結局、ごく一部の日本ファンや日本語がわかる人を除けば、まず事実上の国際語である英語にならなければ、海外の広い範囲で知られることはありえない。こうしたことはノーベル賞の選定についても以前から指摘されていることだが、今回あらためて、良し悪しは別として、英語の影響力あるいは支配力の強さに気づかされた。
過去の参考記事:
・村上春樹の「総称のyou」論
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